目が覚めるとそこはいつもと同じ闇色の世界で、私は少しだけ安心する。
枕もとの目覚し時計の文字盤が、ぼんやり青く光っている。秒針が、黒く細い影になって光る数字の上を廻りつづけている。
静かだった。世界は死んでいるみたいだった。秒針だけが、普段は空気みたいに廻っているくせに、今は生気のない音をいっぱいに響かせている。いや、秒針の音じゃない。時計の体から響いてくる、それは時計の心臓だ。私は目を閉じて、しばらくその音に耳を傾ける。
時計の心音と私の心音は決して重ならない。世界を流れる時間と私の中を流れる時間は別のものだと、音が告げている。布団の中で聞く私の時間は、いつだって時計が刻む時間より遅くて、私は追いたてられているような気分になる。
午前二時を回った頃、いたたまれなくなって私はそっとベッドを抜け出した。
布団を離れるのがつらい季節だ。冷えた空気の中に連れ出された体は、内側に溜めたぬくもりを外に押し出す。外側からは冷気が身を浸す。それを考えるとき、いつもテレビなどで見るサーモグラフィの映像を思い出す。内側の赤が徐々に消えていくと、やがて身体はブルーに染まる。生きている以上、実際全部が青になることはないだろうけれど、なぜか私はそうして闇に浸された身体を想像する。
窓から外を見たが、雨の気配はなかった。
闇の中、外から入りこんでくる光をたよりに着替えをはじめる。音を立てても、明かりをつけても咎められはしないのだけれど、夜には夜の空気がある。昼間と同じにふるまってそれを壊すようなことはしたくない。
脱ぎ散らかした服の中からベージュ色の厚手のセーターを選び、ジーンズを履いた。窓辺に寄って、吊るしてある洗濯物の中から靴下をとって履く。最後にグレーのダッフルコートに袖を通すと、私は鏡も見ずに部屋を出た。
部屋を出ると、まず先に右へ行く。左に行けば玄関、けれどそれに背を向けて狭く短い廊下をまっすぐ進むと、キッチンとつながったリビングに出る。
青い空間。部屋に満ちる、水の音。絶え間ないエアポンプの低い唸り。この部屋には、水槽がある。六十センチサイズの水槽の中には、白い金魚が一匹だけ。水槽を照らすライトの光が水に拡散されて、床に、壁に、天井に、青白い模様を作る。
私は僅かな光を頼りに水槽に近寄った。金魚は無表情な顔をして、底のほうをただよっている。水が汚れてきている。今度の休みの日には水を替えてやらなければ。
しばらく黙って金魚を見つめた後、私はリビングを後にした。
自分の部屋の前を通り過ぎようとして、私は一瞬だけ足を止めた。廊下を挟んだ向かい側の部屋の、襖は閉ざされている。私はちょっとだけその襖を見つめて、その向こうに眠っているはずの相手のことを考えた。やはり明かりはつけなかった。
それから私は、何も持たずに家を出た。
深夜の空気は冷たかったけれど風は強くはなく、凛とした夜気が頬に気持ちよかった。吐き出す息は白い。
マンションの階段を、いかに足音を立てないようにして下りるか、が目下私が自分で立てた目標だ。けれども今日は、踊り場で方向転換するときに小石を踏んで、失敗。
四階分を駆け下りると、いつもはポストの下辺りに置いてあるはずの子供用の玉つき自転車が、はみ出して斜めに出口をふさいでいた。私は一瞬それを見下ろしたあと、ポケットに両手を入れたまま、慎重にまたぎ越した。
月も星も見えなかった。空気は乾いていて雨の匂いはなかったけれど、空はぼんやりと曇って、変な色をしている。地上の雑音を吸いこむと、空はあんな色になるのか、とふと思った。あの変な色は、きっと街の色だ。人間の、私の作り出した色だ。
私は歩きながら目を閉じ、何度も深呼吸をした。冷たい空気が肺に沁みて心地よかった。寒いとは思わなかった。
マンションの前には、煉瓦の敷かれた綺麗な道が延びている。道を挟んだ向かいは小さな公園と駐車場で、右へ行けば国道へ繋がる大通りに、左に行けば駅の方へ出る。私は迷わず左を選ぶ。
このところ、毎日のように同じ時間に外へ出ている。同じ時間であることに理由はない。ただ、眠れないのだ。仕方がないので、気晴らしに散歩に出る。最初はやけくそで出かけただけだったのだが、寝静まった街というのが思いのほか心地よくて、いつのまにやらすっかり習慣になってしまった。
マンションが終わるところで、道は下りの階段に変わる。眼下には寝静まった住宅街。どの家も手入れの行き届いた庭があって、ぴかぴかに磨かれた車が夜の底で眠りについている。窓には常夜灯の光。けれどもこの一軒一軒にはいろんな人たちがいて、泣いたり笑ったり、いろんな悩みを抱えながら毎日暮らしているのだろう。たぶん。
階段のほぼ中央に踊り場があり、そこまで降りた私は、進路を右へとった。駅への近道だ。私の住むマンションは高台にあって、駅前の商店街へ行くには階段を下まで降りて、住宅街を突っ切っていくのだけれど、階段の途中にある細い脇道に入りこむと、駅のすぐ横手に出ることができる。大人が二人並べばそれでいっぱいの細い道は、それでもきちんと舗装されて、街灯も転落防止の手すりもついている。暗くなると危険だと言われてはいるが、利用する人間は少なくないし、私も仕事の行き帰りはこの道を使っている。
ここからの景色が一番綺麗なのは、深夜だと私は思う。近くの人家の明かりが消えて、遠くのビルの光がよく見えるようになるからだ。はじめて夜更けにこの道を通ったのは、残業帰りのことだった。
斜面の真中に作られたこの道は、歩道から上は石垣になっているが、下は未舗装で、雑草が伸び放題だ。今は、枯れかけたススキやセイタカアワダチソウの影から、街の明かりがちらちら見える。十メートルごとの街灯の白けた光が夜を照らして、少しだけわずらわしい。
不意に静寂を切り裂いて警笛の音が鳴り響いて、私は思わず立ち止まって首を竦めた。貨物列車だ。私のいるところからも、闇をまとって走る列車の姿が遠目に見える。ごとごとと重い音を立てて列車が行きすぎるのを、私は立ち止まったまま見送った。そして、その貨物列車の重みと車輪の硬さと冷たさを、少しの間考えた。夜の中を走り続ける列車は、何を運んでいるのだろう。夢だろうか、感情の残滓だろうか、それとも死者の魂だろうか。だからあんなに重い音がするのだろうか。そうして行きつく先は、朝だろうか。夜の果てだろうか。
そして、そんな事を考える自分に気づいて、一人苦笑する。心の中に重く沈んだものがあると、よくこんなふうになる。私のよくない癖で、心が現実を離れて、一歩引いたところから物事を見つめるようになるのだ。自分の中に、どこか冷めた自分がいる。
列車の足音が聞こえなくなると、辺りには静寂が戻った。ススキの葉が風にかすかに揺れていた。私は再び歩き出した。
この細道は、斜面のひだに沿ってカーブする手前の五メートルほどだけ、少し幅が広くなっている。造った人がどういう意図でそうしたのかは知らないけれど、実はそこからの眺めは最高によかった。下には高校があって、人家と一緒に校舎の影や明かりに照らされたグラウンドが臨める。そしてその向こうに、駅や、ビルの明かり。密かなお気に入りのその場所を、私は「展望台」と呼んでいる。
けれど私は、その「展望台」の入口辺りで足を止めた。
今日は先客がいた。私のお気に入りの場所で、手すりにもたれて景色を眺めている。男性だ。この寒空に上着もなしで、黒のセーターに深緑のマフラーを巻きつけただけの格好だ。
ここで、この時間人に会うのは初めてだった。変質者には見えなかったけれど、ひやりとして瞬間的に身をひいた。そして、お約束通りに枯草を踏んでしまった。
風の音に、葉ずれの音にかき消されやしなかったかと思ったのに、願いむなしくその音は男性の耳に届いたようだった。相手はけれど驚いたふうもなく、ゆっくりと振り向いた。彼の口から白いもやもやの塊が出て、風に乗った。
「やあ、こんばんは」
そう言って屈託なく微笑んだ顔は意外に若く、私と同じくらいの年齢に見えた。わずかに癖のある髪が、額の上で風に揺れている。
「ここで何……してるんですか」
私は腰をひいた姿勢のまま、声を押し出した。今の私はさぞ間抜けに見えるだろうと頭の別の部分で思ったけれど、どうしようもなかった。
彼は小さく首をかしげるようにして私を見つめ、それから弾けるように陽気な声で笑い出した。
「大丈夫ですよ。誰もとって食いやしませんって」
私はびっくりして彼を見ていたが、相手があんまりにも笑うので、恥ずかしくなって俯いた。すると彼は笑うのをやめたけれど、見ると口元はまだ笑い足りなそうに緩んだままだった。それで私は少しだけ、警戒を解いた。
「ここで何を? お散歩ですか?」
彼はもう一度、くすりとだけ笑って言った。
「ああ、ごめんなさい。夜景鑑賞ですよ。知ってます? 夜景ヒーリングって」
耳に柔らかい、綺麗な声だと思った。夜の空気に、高くもなく低くもない彼の声はとてもよく合っている。
「夜景ヒーリング?」
「夜景の色彩には、人を癒す力があるそうですよ」
初耳だった。私は彼の視線につられて、眠りについている街並みに目をやった。
「こういう場所は、郊外夜景と言うそうです。駅にも近いから、駅前夜景とも言えるのかな。――郊外夜景はね、見ていると、幸せの自覚とか、逆に幸せへの願いが湧いてくるものなんだそうです。受け売りですが」
幸せの自覚ってなんだろう、と私は素直に疑問に思った。けれど、私が問いを口に出す前に、彼が先に解説してくれた。
「住宅の明かり、見えるでしょう。人の生活している明かりを見ると、なんとなくほっとしませんか? 見ていると安心できるんだそうです」
なるほど、と頷いて、私は眠る街並みに視線を廻らせた。それから、思わず首をかしげた。
「でも、こんな時間に?」
時刻は二時を回っている。普通の人ならば眠りについている時刻で、住宅の明かりは、ほとんどない。
しかし彼は、私の質問を別の意味に捉えたらしかった。
「じゃあ聞きますけど、あなたは何をしてるんです? こんな時間に、こんなところで?」
そういう意味じゃないと言おうとした私の口は、けれどなぜか素直に問いに答えてしまった。
「散歩よ。ただの」
私がそう言うと、彼は大きな目でじっと私を見つめた。まだ会って間もない相手に凝視されて、怖いとは思わなかったけれど、何となく決まりが悪かった。私はその視線を受け止めきれなくなって、目を逸らした。
夜の街が目に入った。途端、彼が口を開いた。
「ここからの眺め、素敵でしょう。僕は気にいってるんです」
思わず視線を戻すと、彼はもう私を見てはいなかった。闇に沈む街に目を注いで、彼は静かに言った。
「あなたも、癒されたいんですね」
再び手すりに肘をついて、私をふり返る。首をかしげる様にして、少し笑った。その笑顔がとても綺麗だと私は思った。
ようやく私は、彼のそばまで歩いていった。手すりにもたれた彼の隣に並んで立つ。
「よく、ここに来るの?」
モスグリーンのペンキの塗られた手すりに手を置いて街を見下ろしながら、私は訊いた。言いながら、これまでこの場所で一度も彼に会ったことがなかったことに気がついた。時間帯が違うのかもしれない。
「たまにね」
そう言うと彼は身を起こし、私のほうを向いた。びっくりして、私も彼に向き直る。
向かい合うと、彼は屈託のない笑みを浮かべて言った。
「僕は、レイジと言います」
問いかけられはしなかったが、そう言われては私も名乗らないわけにはいかない。
「私は、ミヤ。深い夜と書いて、ミヤ」
「へえ。いい名前だ」
そう言った彼は、ふと何かに気づいたように顔を輝かせた。
「そうか。あなたも僕も、夜の人間なわけだ」
「え?」
私が眉をひそめると、彼はいたずらっぽく笑って、それからひと言ひと言区切るようにして言った。
「シ・ン・ヤ・レ・イ・ジ」
私はその言葉を反芻し、それからようやく気がついた。
深夜零時。私たちの名前。
レイジと言うのがどんな字なのか知らなかったけれど、聞かない方がいいような気がした。シンヤレイジ、それは素敵な暗号のような響きを持っている。
「僕はもう行きます。また会いましょう、シンヤ」
微笑んで差し出された右手を、私は握った。レイジの手は大きくしなやかで、そしてとても冷たかった。夜の温度だ。
秘密の隠れ家を見つけたような、妙に楽しい気分だった。
「おやすみなさい、また」
日にちも時間も、何の約束もなかったけれど、私は頷いて言った。何の確信もないのに、また、すぐに会えるような気がしていた。
「ミヤちゃん」
声にはっとして顔を上げると、目の前に克史くんの顔があった。
「どうしたの? ぼんやりしちゃって」
私と目が合うと、ようやく克史くんは顔を離し、イスに座り込む。白地に花の模様の入った布張りの背もたれに背中を預けて、心配そうに首を傾げてみせた。
「気分でも悪い? 今日はもう帰ろうか?」
土曜日の午後の喫茶店は人が多く、落ち着かない。そんな中で、私は思いがけずぼんやりしていたようだった。克史くんが心配している。私は慌てて笑みをとり繕う。
「何でもないよ。映画、克史くんの観たがっていたやつじゃなくて残念だったけど。けっこうよかったよね」
けれど克史くんはそれに乗ってこなかった。ストローの袋の端をちぎって開けながら、さりげなく、でも直入に聞いてきた。
「また、お父さんのこと考えてたのか?」
克史くんはテーブルに頬杖を付くと、封を切ったばかりのストローを銜え、空いているほうの手でまだつけたままの袋を押さえて息を吸ったり吐いたりした。ストローの袋は、そのたびにすぱすぱと変な音を立てて、膨らんだりしぼんだりした。
こういう子供みたいなことを、いきなりはじめるのが克史くんなのだ。
「この前みたいに、飛ばさないでよ」
「平気だよ」
ストローを銜えたままで、もごもごと克史くんは言った。
克史くんは私の彼氏で、つき合いはじめて半年になる。去年の夏休みに私の勤める会社に短期アルバイトとして入ってきた克史くんは、国立大学の三年生だ。この春で、四年生になる。いつも笑っているような穏やかで優しい目と、対照的なくらいのいたずらっこぶりが印象的で、私はすぐに克史くんを好きになった。笑うと左の頬にえくぼができて、本当にうれしそうな顔になる。
その克史くんは今、ストローの袋で遊びながら私の答えを待っている。こういうときは本当に、ごまかしがきかない。私は諦めて、昨日ね、と言った。
「眠れなかったのよ」
「それはよくないね」
克史くんは、私の夜更けの散歩のことを知らない。言ったら心配するだろうし、怒るだろう。でも、今やあの散歩は私の日課になっていて、眠りにつくための儀式になっているのだ。やめてしまうのはつらい。
失礼します、とウェイトレスがやってきて、私の前に苺のショートケーキと紅茶を置いた。克史くんはクリームソーダ。その間私も克史くんも無言で、二人してウェイトレスの女の子のきれいに手入れされた爪や、ケーキの上の苺を眺めていた。恥ずかしいことに克史くんはストローを銜えたままだったが、女の子は笑わなかった。
「俺もケーキ、頼めばよかった」
伝票を置いてウェイトレスが行ってしまうと、ようやく袋を取ったストローをグラスに突き刺しながら、克史くんが残念そうに言った。
「お腹空いてないんじゃなかったの」
「そのご立派な苺を見てたら、欲しくなった」
「追加で注文する?」
私が聞くと、克史くんはいや、いいよと言いながらクリームソーダを一口飲んだ。
「しょうがないなあ、もう」
私は苦笑して、ショートケーキの皿を克史くんのほうに押しやった。
「食べなさいよ、苺」
「いいって。ミヤちゃんに悪い」
克史くんは、私のことを「ミヤちゃん」と呼ぶ。「ミ」を少し伸ばすように発音する克史くんの呼び方が、私は好きだ。
「ほらほら、口の端が引き攣ってるぞ」
私は笑って言った。
「苺なら食べていいよ、本当に」
「……本体も欲しい」
「……やっぱりもう一つ、注文しよう」
結局追加でもう一つ、ショートケーキを注文することになった。
「ここのケーキは、生クリームがおいしいんだよ」
二つめのケーキが運ばれてきたとき、私はそう言ったが、克史くんの目はもうショートケーキに釘付けだった。私はまた、笑ってしまった。
「女の子って、いいよな。甘いものじゃんじゃん食べれてさ」
真っ先にトッピングされた苺に手をつけながら、克史くんが呟いた。
「そう?」
「男がクリームソーダとかショートケーキ頼むのって、結構勇気要るんだぜ? 特に一人だと」
克史くん甘党だもんね、と笑って、私は言った。
「いいじゃない、今は私と一緒なんだから」
「そうだね」
頷く克史くんの目が、私の食べているケーキの苺を狙っている。克史くんはいつも真っ先に上の苺を食べるけれど、私は最後までとっておく。当然のように、狙われてしまう。
私は黙って、ケーキの皿を克史くんのほうに押しやった。克史くんは今度は遠慮なく、苺を奪った。
「就職活動、進んでるの?」
「ぼちぼちだな」
私が聞くと、克史くんはうれしそうに苺を頬張りながら、気のない返事をくれた。
最近は三年生の終わりから、就職活動をするらしい。克史くんは今、就職活動の真っ最中だ。狙いはコンピュータ関連機器の製造会社らしい。私が勤めている会社にアルバイトとして来たときも、精密機器の組み立てを担当していた。
「行くところなかったら、うちに来なさいね。社長、君のこと気に入ってたから」
「やだよ、あんな小さい会社」
あっさり言った後、克史くんは上目遣いに私を見た。私が怒るかと思ったようだったが、自分の勤める会社が下請けの小さな工場であることは、私も承知している。確かに克史くんでは満足できないだろう。
私が何も言わないのを見て取ると、克史くんはいたずらを思いついた子供のように、ちらと笑みをのぞかせた。
「まあ、あそこに就職して、社長になるのもありかもな」
「君が? 社長?」
「そう。んで、一代で大会社に」
それで私も笑った。
「変な新製品を開発したりとかして?」
「変なとはなんだよ。世紀の大発明と言いなさい」
「うん。まあ、もうすぐ今世紀も終わるしね」
「おう、だから次の世紀だよ」
今度は二人で笑った。
克史くんといるのは楽しかった。こうして映画を見て、喫茶店でおしゃべりをして。それだけで、他の一切を忘れることができた。今の私は、夜の私じゃない。あの沈んだような、妙に冷めた私じゃない。
ふと、私のことをシンヤと呼んだ人のことを思い出した。
お茶を飲んだあと、喫茶店を出て街をぶらぶら歩いた。私は平日ずっと仕事に出ているので、克史くんと会うのは週末になる。克史くんは、歩きながらこの一週間にあったことをいろいろ話してくれた。
「ああそうだ、金魚のエサ買っていい?」
ふと思い出して、私は言った。克史くんがいいよと言ってくれたので、二人で小さなペットショップを見つけて入った。
初めて入るそのお店は魚類専門のショップだったようで、鳥たちの騒がしい声もなく、しんと沈んでいた。薄暗く、ひんやりとした店の中はドア一枚隔てた外とは大違いで、空気までもが息をひそめているようだった。水槽に閉じ込められた生き物たちはなんとなく生気が薄く、ひっそりとしている。
「あんまりはやってないみたいだな」
克史くんが少し声を落としてそう言った。ただでさえ低い克史くんの声は、ぼそぼそと店内の陰に広がっていって、薄闇と一緒にあちこちに蟠っているようだった。
「でも、こういうお店、私は好きだよ」
「うん、好きそうだね」
棚にいつもと同じ金魚のエサを見つけて、私はそれを買った。レジに座っていた黒いエプロンのおじさんは、やはりぼそぼそとした声でありがとうございます、と言った。
お店を出ると、外は対照的に春を匂わせる暖かな光に満ちていた。三寒四温、こうして新しい季節に近づいていくのだろう。けれど明るい陽射しは私には少し眩しくて、鮮やかな色彩は洪水のように脳を侵す。克史くんと他愛ない話をして笑う私の中に、青い私がいる。夜の空気を愛する、もう一人の私が。
ふと克史くんが真顔になった。
「さっきの話だけど」
「なに?」
「お父さんのこと」
克史くんはいつもの優しい目で私をじっと見た。
「ミヤちゃんさ、俺の前では強がるだろ。いっつも大丈夫って言って、笑うじゃん?」
「……言うね、確かに」
「無理しなくていいんだよ」
「……うん」
無理、か。
私はありがとう、と言って微笑んだ。
「ごめんね。でも、強がってるわけじゃないんだ。本当に平気だから。どうしようもなくなったら、ちゃんと呼ぶから」
本当だね、と克史くんは念を押した。
「大丈夫だよ」
私は頷く。克史くんに見えないように、そっと唇を噛む。
きっと呼ぶことはない。今までだって、そうしてきたのだから。
――深夜ちゃんがしっかりしないとね。
「利佳子のほうが、つらいと思うんだ」
――お母さんを支えてあげないとね。
「お母さん?」
克史くんが眉間にしわを寄せる。
「うん。まだ、うまく立ち直れてないの」
「それはミヤちゃんも一緒だろ」
「そうかな」
「そうだって」
克史くんは、大げさなくらい真剣な表情で言った。
「本当に、何かあったらいつでも呼べよ。すぐ駆けつけるから」
私は笑って頷いた。
一緒だと言われてうれしかった。気遣ってもらえるのがありがたかった。――けれどそのとき私は、まだ自分が大丈夫だと思っていたのだ。
「やあ、こんばんは」
白い雲を吐き出して、レイジが微笑む。この前と同じ黒のセーターとジーンズ、深緑のマフラー、この前と同じ時間同じ場所。
初めて会った夜から、三日後のことだった。
「こんばんは。……寒くないの?」
「寒いのは平気だね。夜の人間だから」
「変な理由」
私は笑って、この前のようにレイジの隣に並んだ。
「シンヤは、毎晩ここに来るの?」
「そうよ。日課なの」
「一人で?」
「そう、一人で」
レイジが問うような視線を向けてきた。私は、ここへ来るようになったわけを話した。眠れないのだと。
「この時間に女の子のひとり歩きは、危ないよ」
レイジは眠れないわけを問うでもなく、ぽつりとそれだけを言った。
「そうだね」
頷いて、私もそれ以上は言わなかった。喉のあたりまで上ってきた言葉は音にはならず、ため息に混じって夜に散った。何となく胸のうちが重かった。
いっそのこと、吐き出してしまえば楽になるのかもしれない。感情を何もかも。でも、それは今ここでするべきことじゃない。この人に聞かせることじゃない。
それでも、こうしてレイジの隣に立つことに、もう何の違和感も抱かなかった。静かな夜、何の憂いもなく眠りにつくときのような、そんな安心感さえあった。
「夜景、好きなんだよね?」
ふいにレイジがそう言った。私は首をかしげてレイジをふり返り、彼の白い顔を見た。街灯の弱い光、レイジの長い睫が頬にぼんやりとした影を落としている。私は小さい頃絵本で見た、夜風の精というのを思い出した。あの深い闇色の大きな瞳と、夜を覆うような長い長い睫。
レイジは手すりにもたれて夜の景色に目を注いだまま、私に尋ねた。
「どうして?」
「――どうして=H」
「夜の街の、どこが好き?」
私は答えに詰まり、街の明かりをあらためて見つめた。
日付を越える時間帯、この時刻まで起きている窓の数は少ない。闇の増した視界の中で、それでも鈴のように連なったマンションの外灯や、ひそやかに呼吸するような高層ビルのランプの赤い明滅が地上を彩り、見ているだけで、意識が沈み込むような感覚を誘う。
これまで「好き」の理由など考えたことはなかった。言われてみれば、そうだ。私はどうして、夜になるとこんなに楽になるのだろう。暖かい陽射しの中ではなく。
「そうね――水の底みたいだから。落ち着くのよ。きっと」
光の届かない世界。漂うのは、静寂と、澱。
考えながら、私は言った。レイジは手すりの上に頬杖をついて、私を見上げた。
「水」
「そう。沈んでいるように見えない? 街が」
言われて彼は、再び広がる景色に目を向けた。
「空は海、か」
しばらくして、そんなふうにレイジは呟いた。
「人は、魚?」
「そうね。それなら、私はきっと金魚ね。海水の中で、うまく呼吸できずに溺れていくんだわ」
夜の底、見上げる先には遠い水面、その向こうには、きっと昼の日差しが見えているのに。色彩、喧騒遠く、届かない高さに深く包まれて、沈んでいく自分が見える。心を錘にして。
私は例の悪い癖が出てきていることに気づいた。自嘲的になってきている。レイジは私の言葉に含まれているその色に気づいているのかいないのか、夜風の精の瞳を閉じて、歌うように言った。
「夜の街を、泳ぐように呼吸する」
眠っていても、街は静かではない。車の音、列車の音、踏切の音、自動販売機の唸り、工場の音、誰かの寝息、足音、音楽、犬の声、風の音、人々の生活の営みが波のように絶えることなく、寄せては返し、重なり合い、世界に満ちている。レイジの声は、その波に溶けるように調和して、沁みていく。彼は夜気のようだと、私は思った。
ずっとこのままでいたい気分だった。
利佳子というのが母の名で、私はいつからか母のことを「お母さん」とは呼ばなくなった。周囲にはよく、姉妹みたいに仲が良いね、と言われる。実際そんな感じだと思う。父が死んでから、私と母の関係は、親子ではなくただの女同士のそれになった。そう、私は感じている。
朝食の時、私は言った。
「もうすぐお父さんの一周忌だね」
父が死んで、一年が経とうとしている。
私の言葉に、母はパンにバターを塗る手を一瞬止め、それから頷いた。
「……そうね」
私はパンにかじりつきながら、母を観察する。伏せられた目の睫毛の影と、笑おうと引かれた口の端と。無理をしているんだ、と思う。無理をして微笑んで、なんでもないふりをして。無意識かもしれない。でも、そんな母を見るのは、つらい。だから私は、気づかないふりをする。なんでもないふりにだまされてみる。
私も、こんな顔をしているのだろうか。
「法要は家でするんでしょう? 食事はどうする?」
「食事は外でしようと思うの。お店、予約しないとね」
死者との告別に関わる一切の儀式は、ひどく煩雑だ。けれど、それらのことに煩わされているうちに、遺族は悲しみの沼を抜け出し、日常へと戻る道を見つける。そのための儀式だと、思う。
私は紅茶を飲み干すと立ち上がり、水槽に歩み寄った。白い金魚は動かない。
水が汚れている。この間の休みは克史くんに会って、結局水槽を掃除しなかった。酸素が減って、水槽の中の金魚は少し苦しそうだ。
昔はこの金魚にも仲間がたくさんいた。お祭りで掬ってきた金魚、赤いの、白いの、斑なの、和金、出目金。でも、いつのまにか仲間たちは一匹、また一匹と死んでいって、最後にこの子だけが残った。父がかわいがっていた、父の形見。
白い金魚は鑑賞用としては嫌われがちなのだという。確かに色は冴えないし、「金魚」の名のイメージからは程遠い。ただの白い魚だ。
でも、私は白いこの金魚が好きだ。夜の底に住む、月の色をしたこの魚が。
掃除をしなくてごめんねと心の中で謝りながら、克史くんと一緒にペットショップで買ってきたフレークのエサをやる。水面にエサが浮かぶと、どうやって察知するのか金魚はついと水面に上がり、静かにエサを口に含む。この金魚も、以前のように人が近づくと水面で口をぱくぱくさせて、公園の鯉のように水面を叩いてエサをねだることがなくなった。
本当に、我が家には活気がない。
父が死んだのは一年前の今頃、冬と春の混じり合った季節だった。しばらくやわらかな陽射しの日が続いた後、突然真冬のように寒さが戻って雪が降りつもった日だった。朝、いつものように車で仕事に出かけた父は、そのまま事故に遭ってあっけなく逝った。
あの悪夢のような一日を、私は生涯忘れることはないだろう。 人は誰でも、一生のうちに何度かそういう日に出会う。私にとってのあの日は、刻印のように私の人生に焼き付いているけれど、それ自体はきっと珍しいことじゃない。誰かの死に行き合うのは当然のことだし、世間にはもっと残酷な理由で大切な人を亡くす人もいる。そういう一切が、最近になって理解できるようになった。でも、一年前の私は自分の悲しみで手一杯で、自分たちは世界中で一番不幸だと思っていた。
皆、そうなんだろう。心の底から笑えるようになるまでには、時間のかかる出来事がある。一生かかることだってあるかもしれない。簡単に割り切れるものなら、誰も苦しんだりしない。
誰もが、他人には理解できない悲しみを背負っている。その大きさも重さも、他人には絶対に測れないし、比べられない。
父が死んだときの母の取り乱しようといったらなく、私は母がそのまま父の後を追おうとするのではないかと心配したものだった。親族も母の友人たちも、皆母のことを気にかけていた。父母はもともと羨まれるほど仲の良い夫婦だったけれど、本当に母にとっては父が全てだったのだと、あの時私は痛いほど思い知らされた。
死ぬまで一緒にいる、というのはどんなものなのだろう。私はまだ、克史くんに対してそんな感情を持ったことはない。まして、そんな相手を失った時の悲しみなんて、推して測れるものではない。
あれから母は家計を支えるために職に就き、新しく友達もできて立ち直ったように見えた。笑顔も戻った。けれど、今でも何かあると時々泣く。近所で不幸があったとき、悲しいドラマを見たとき、父の話をするとき。死の影は重く生者に差し、目の前を塞ぐ。それはたぶん私も同じで、このからっぽの感覚を、私はときどきもてあます。
「そうだ、今日の夕食、利佳子の当番だよね?」
テーブルに戻って二杯目の紅茶を入れながら、私は言った。
「私、今日はいらないから。一人で食べてて」
母は新聞に目を通しながらパンをかじっていたが、私の言葉に顔をあげた。
「食べてくるの?」
「うん、克史くんと」
すると母は目を細めて微笑んだ。
「仲良いわね、あなたたち」
「うーん、そうかな」
「大事にしなさいね」
そう言った表情が少し寂しそうで、私はどきりとした。母の心の傷は少しも癒えてはおらず、きっとまだ血を流している。そうして血を流し続けた母がある日突然私の前から消えてしまいそうで、私はいつも不安にさらされる。母までも失うのは恐い。父のことを考え、母のことを考えるとき、あの悪夢の日、死と生を考えるとき、私は眠れなくなる。
それで私は、レイジに言った言葉の嘘に、ようやく気づいた。
夜が好きなんじゃない。楽になんかなっていない。私自身が、死の淵をさまよっているのだ。父との繋がりを絶ちたくなくて、死の影の中に母を見いだすのが恐くて、私は光の中へ出られずにいる。夜が母を連れ去らないように。光によって父を忘れないように。
「どうしたの、ミヤ?」
気づくと、母が不思議そうに私を見ていた。私はあわてて何でもないと言いながら、開きすぎた葉っぱのせいで膨らんだティーバッグをカップから引き上げた。
「帰る前には、電話してね」
「うん、そうする」
「楽しんでおいで」
もう一度微笑んで、母は椅子を立った。食器を流しに運び、キッチンを出ていく。
私がすっかり渋くなった紅茶を啜っていると、母の部屋から鈴の音が聞こえてきた。仏壇に手を合わせている母の背を見たくなくて、私はそのまま出がらしの紅茶の昏い色を見つめていた。
仕事が引けてから克史くんと遊びに出るのは、滅多にないことだ。
けれども今日は、克史くんが観たがっていたのについに観に行けずじまいだった映画がレイトショーでやっているというので、特別に観に行くことにしたのだった。
待ち合わせて食事をしたあと映画を観に行って、そのあとまたお茶をして映画の感想を言い合って、駅に着いた頃にはすっかり午前零時をまわっていた。終電ぎりぎりの時刻だ。
家まで送ると言ってくれた克史くんを断わって、私は駅からの道を一人で歩いた。いつもの近道。
駅からたどる道は、「展望台」に出るまで細いアスファルトが曲がったり上ったりして続いている。見通しが悪く、「展望台」に出るまで夜景は見えない。防犯灯の白けた明かりを頼りに、私はてくてくと幅の狭い道を歩いた。
花崗岩の石垣は防犯灯の明かりに白く浮かびあがって、通る者に妙な圧迫感を植えつける。狭い空間に響く足音が、自らを追いたてる。私は次第に息苦しさを覚えるようになり、最後はほとんど小走りになって、ただひたすら「展望台」を目指した。
角を曲がると、視界は急に開ける。吹きつける風、広がる街並み、――そして今では見慣れた人の背中。
「今日は逆から登場ですね」
そう言って、レイジは風に溶ける笑みを浮かべる。夜景をバックに立つ、いつもと同じ黒いセーターの彼は、夜の化身だ。
「今、帰りなの」
笑って、私はレイジの隣に並んで立った。レイジがいるときの、私の定位置。
「仕事? おつかれさま」
「ううん、デート」
「送ってもらわなかったのかい」
レイジは微かに眉をひそめたみたいだった。私はもう一度笑って答えた。
「歩きたい気分だったの。それにこの時間なら、レイジがいると思って」
「そう」
こぼすように呟いて、レイジは夜景に目を注ぐ。私も倣って街を見る。
空は今日も曇っている。垂れ下がる雲が天上を低くして、ビルが空に突き刺さっているみたいだ。
「彼氏には、散歩のことは話していないの?」
「言ってないわ。誰にも言ってない。――言えば、怒られるもの」
「君のことが心配だからだよ」
視界の端で、レイジがこちらを見ていた。私はうつむいて、手すりに置いた自分の指を見つめた。私はマニキュアはつけないことにしている。家事をしていると、どうしてもすぐに剥がれてしまうとわかっているからだ。
いつか克史くんと入った喫茶店のウェイトレスの女の子の、綺麗にアートされた爪を思い出した。同時に、克史くんの滅多に見せない怒った表情と、利佳子の心配そうな表情も記憶の底から引っ張り出す。
「そうね、気をつけるわ」
けれどもレイジは首を振った。
「シンヤ、治安だけの問題ではないよ。君の心のことだ」
私は言葉に詰まってレイジを見た。凪いだ夜の静けさをたたえた目が、じっと私を見つめている。
「ここに来るのは、癒されたいからだろう?」
「……ええ、そうよ」
私は頷いた。それから夜景に目を移した。街灯の光、浮かび上がる木々のシルエット、部屋の明かり、点滅するランプ、眠る街並みは昨日と少しも変わらないようで、時の不介入を感じさせる。けれど、本当はそうではないことを私は知っている。
「でも、癒されないこともわかってるのよ」
私は手すりに置いた手に力を込めた。今朝考えていたことを、もう一度思い出す。
「気づいたのよ。私は夜が好きでここにいるんじゃない、夜にとらわれてしまったんだわ」
死の淵。現実の狭間。そこに身を滑りこませた私、青色に体を浸したもう一人の自分。
レイジはなにも言わなかった。私はしばらく黙ったあと、ようやく重い口を開いた。
「うちね、父がいないの。死んだのよ、去年」
この話を、自分から誰かにしたことはなかった。問われれば答えるし、隠すつもりなどはじめからない。それでも、こういった話題を出すことは、自らの不幸を振りかざしているようで好きになれなかったのだ。同情を引いているようで嫌だった。
でも、今なら素直に言える気がした。これも夜のせいだろうか。
「事故に遭ってね。病院に運ばれて、そこでそのまま。母と、病院で朝を迎えたわ」
レイジはやはりなにも言わない。ただじっと、私を見ている。視線を感じる。
「朝まで父の体にすがって泣いた」
私はレイジのほうを見ないようにしながら、ぎゅっと手すりを掴んだ。
「『永遠に夜明けが来ないような』なんてよく言うけれど、それは嘘ね。本当の絶望は、夜明けと共にやってくるんだわ。覚めない夢が、絶対の現実が、流れる時間と一緒に目の前に突きつけられるのよ。だから、朝なんて来ないでほしかった。だから――」
奥歯を噛みしめた。顔を上げると、灰色のクッションのような雲が目に入った。どんな感情も吸収してくれるクッション。私の感情も吸収して、拡散させてくれるに違いない。そのとき空には、どんな色が加わるのだろう。
「朝は嫌い」
――まだ大丈夫。
言わなければよかった、と思った。ちっとも正直じゃない。私はただ、カワイソウな身の上話をしているだけだ。話してしまえば、同情が欲しくなる。
なんだか悔しくなって、私はうつむいた。こんな風に話すつもりじゃなかったのに。レイジはどう受け取っただろうか。
私がすっかり口をつぐんでしまっても、レイジは長い間黙っていた。
やがて、泡を吐くようにぽつりと言った。
「誰かの死に行き合うと、心が分離するものなんだよ。心の一部が死んだ人について行ってしまうから」
――ああ。
私はレイジを見なかった。ただ、雲が感情を吸収し切れなかったことを悟った。その一片が、瞳から溢れこぼれ落ちるのを止めることができなかった。
隣でレイジが動くのがわかった。遠慮がちに私の肩を抱いたその体は、やはり温もりのない夜の温度そのものだった。
それでも私は、求めていた手にめぐり合えた気がした。
「そういうの、浮気って言わない?」
菜月ちゃんの言葉に、私はびっくりして手にしていたティーカップを置いた。
「そんなんじゃないよ」
私が言うと、菜月ちゃんは綺麗にグロスの引かれた唇をすぼめて見せた。
「どうかなあ。アタシには、そう思えるんだけど」
菜月ちゃんは、高校時代の同級生だ。高校卒業後、私より一足先に社会に出て働いていた彼女は、去年の秋にやはり同級だった寺坂くんと結婚した。頭の上でふたつのお団子にまとめたオレンジ色の髪の毛がよく似合う、しゃきしゃきした女の子だ。
土曜の昼下がり。午前中で仕事が終わった私は、久しぶりに菜月ちゃんと待ち合わせてお茶をした。なんだかんだで、彼女と会うのはほぼ一ヶ月ぶりになる。
「本当に、違うんだよ」
ミルクレープを食べ終えた私は少し考えて、やはり首を横に振った。
克史くんがいるのにレイジと会って、後ろめたさはなかった。レイジの存在はそういうのではないのだ。自分と向き合っているような、そんな安心感がある。言い訳ではなく。
私はレイジのことを何も知らない。レイジというのがどんな字を書くのかも、年齢も、どこに住んでいるのかも。それはレイジにとっても大差ないだろう。でもきっと、お互いにそれでいいのだった。私たちの接点は、あの展望台にしかない。それで、いい。
私がそう言うと、菜月ちゃんはチョコバナナクレープを口に放りこみながらますます眉をひそめる。
「なに、それ? そいつ、アヤシくない?」
「怪しくなんか、ないよ」
「絶対変だって。気をつけた方がいいよ」
「そうかなあ」
だいたいね、と言いながら、菜月ちゃんは立てたフォークを振る。
「そんな時間にふらふら出歩いてるあんたもあんただよ。なんで周りに言わないの」
「菜月ちゃん、口にクリームついてるよ」
私の言葉に菜月ちゃんは一瞬ひるみ、指先で唇をぬぐった。それから今度はゆっくりと、言葉に力を込めるようにして、ミヤ、と私の名を呼んだ。
「あんたは、もっと周りを頼っていいと思うよ」
瞳の中をのぞきこむように見つめられて、私は思わずうつむく。うん、と小さく頷いた。
「克史のこともね。頼ってやんなよ。あの子はあの子なりに、あんたのこと心配してんだから」
「……うん」
でも、私には頼るということがどういうことなのか、よくわからなかった。私はそんなに一人で立とうとしているように見えるのだろうか。
私は正直にそう告げ、すると菜月ちゃんはため息をつくように笑った。
「あのね。あんたはもっと感情を吐き出していいんだよ。思ってることをどんどん言ってみな。整理できてなくてもいいから」
「どんどん」
「そう、どんどん。あんたは何も言わなさすぎるよ。世の中、言わなきゃ伝わんないことのほうが多いんだからね」
言って、菜月ちゃんはティーカップに残った紅茶を飲み干す。ポットも空になっていることをしっかり確かめてから、出ようか、と立ちあがった。私も鞄を探り、財布を取り出す。
「ミヤ、今日はうちにおいで。ダンナいないからさ。一緒に寝よう」
コートに袖を通しながら、菜月ちゃんが言った。
「あんた見てると心配だよ」
伝票を持って先に歩き出した菜月ちゃんに追いついて、私はそっと言った。
「菜月ちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
菜月ちゃんは微笑み、私の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
――何か大変なことが起こる日というのは、何気ない朝からはじまるんだね。
そう言ったのは、誰だったろうか。
朝食はトーストとハムエッグだった。当番だった私が作った。
母はいつものように新聞に目を通しながら、それらを綺麗に食べた。週末は暖かくなるみたいだね。よかったね。そんな話を、なんとなく交わした。
それから母は、私の淹れた百バッグ四百九十八円のティーバッグの紅茶をおいしいおいしいと飲み干して、父に挨拶をして、私より先に家を出た。
いつもの朝だった。
母が倒れたと職場に連絡があったのは、お昼の時報が鳴るには少し早い時刻だった。
昼休みを目前に控えた時間に二十足らずのデスクの電話が一斉にルルルと鳴って、仕事に区切りをつけ始めていた誰もが一瞬電話に出るのをためらった。仕方なく、私が受話器を取った。
「はい、常盤電器工業です」
「すみません、藤谷と申します。そちらに高岡深夜さんは――」
「……良恵さん?」
聞き覚えのある声が飛び込んできて、私はびっくりした。良恵さんは、母の友達だ。今の職場で知り合い、歳は四十二歳と母よりいくつか若いけれど、ふくふくとした笑い顔が印象的な、とても愛想のいい女の人だ。何度か家に遊びに来たこともある。
「ミヤちゃん……」
相手が私だとわかると、途端に良恵さんは声を詰まらせた。張り詰めていたものが一気に崩れさったようだった。
――こういう声を知っている。
頭の奥がしびれるような気がした。私はお腹に力を入れた。受話器を握り締め、強く耳に押し当てた。
「あのね」
良恵さんは一生懸命息を整えようとしている。私は黙って続きを待った。
「あの……利佳子さんが、お母さんが――」
次の言葉が出てこない。隣のデスクの山崎さんが、不思議そうにこちらを見ている。私は目を閉じた。
「……職場で、倒れて」
ようやく良恵さんは言葉を押し出した。私はさらにきつく受話器を握った。胃のあたりに重く不快な衝撃が走った。瞼の裏に、倒れる母の姿がスローモーションで浮かんだ。決して見ることのない瞬間の光景。――あの日のように。
「良恵さん」
唇を噛み、鼻で大きく息を吸って、私は言葉を吐き出した。とんでもなく固い声が飛び出した。
「今、病院ですか? どこの?」
電話の向こうで良恵さんは泣いている。
びっくりしたのだろうなと思った。あのときの母に、とてもよく似ていた。
「市民病院よ。救急車で運ばれて――」
「わかりました、すぐ行きます」
「ミヤちゃん、落ちついてね。きっと大丈夫だから。だから、気をつけて」
良恵さんのすがるような声がした。私は頷いた。
「大丈夫です、ありがとう」
受話器を置いてからようやく、周囲の心配そうな視線に気づいた。田原専務が皆を代表するように、自らのデスクから声をかけてきた。
「高岡くん、どなたか具合が悪いのかね」
「ええ、母が――」
言いかけて、専務を見下ろす自分の視線の高さに気づいた。知らず、立ちあがっていたのだった。
言葉を途切れさせた私に対して、専務は状況を察知したようだった。静かに私の隣の山崎さんに顔を向けた。
「山崎くん。高岡くんを送ってあげてくれませんか」
「はい」
頷いて、山崎さんが席を立つ。会社の車のキーを取りに行こうとするところを、私は呼び止めた。
「いいです、一人で行けます」
「でも」
山崎さんが困ったように専務を振り返る。専務は――ごま塩の頭をきちんとセットした、銀縁眼鏡の初老の男性は、私を見て穏やかに言った。
「送ってもらいなさい。仕事のほうはかまいませんから」
部下に気を使う人だ。眼鏡の奥の瞳は深く優しく、揺るぎなかった。
「気をしっかりお持ちなさい。あなたまで事故を起こしてはいけません」
私はようやく肩の力を抜いた。頷いて、頭を下げた。
「ありがとうございます」
車のキーを取ってきた山崎さんが、私の肩をそっと抱いてくれた。
――みんな優しい。
その優しさが、胸に染みた。けれど、今の私にはつらかった。張り詰めたものが崩れ去ってしまいそうだから。
そうして促されるままに、私は職場を後にした。
あの日もそうだったと、私は思い出した。あの日。父が逝った日。
いつもと同じ朝だった。父は、たぶんいつものように目覚めて、トーストをかじって、新聞を読みながらコーヒーを飲み干して。仕度をして家を出た。
就職も決まり、学生最後の春休みを満喫していた私は、だらだらと寝ていたと思う。人の気配に目が覚めて、トイレに行って、狭い廊下で出掛ける父とすれ違った。
「おはよう、深夜」
「おはよう、行ってらっしゃい」
あの日交わした言葉はそれだけだった。寝ぼけていた私は、父の顔もよく見ていなかった。そのことが後でどれだけ自分を苦しめることになったか、そのときの私には知るすべもなかった。
布団に戻って再びうとうとしていた私を起こしたのは、母だった。目に涙をいっぱい溜めて、ひどく途方に暮れた顔をしていた。「お父さんが、事故に遭ったって」
会社から、父の同僚の伊良さんが迎えに来てくれた。病院に着くまで、私は子供のように泣きじゃくって震える母の肩をしっかり抱いていた。
――あの日と同じだ。
悪夢の日。祈りが届かなかった日。真黒な夜明けを迎えた日。絶望という言葉を実感した日。
助手席のシートに背を預けて、私は目を閉じた。隣でハンドルを握る山崎さんが「きっと大丈夫よ」と何度も言ってくれた。彼女の気遣いはとても嬉しかったけれど、私はただ黙って頷くしかなかった。その言葉が偽りになった日を、私はすでに一度体験しているから。
病院に着くと、入口付近の待ち合いで良恵さんが待っていた。私の姿を見つけると、涙で顔をくしゃくしゃにしながら駆け寄ってきた。
「深夜ちゃん!」
「良恵さん、利佳子――母は?」
思ったよりしっかりした声が出て、私はほっとした。他人が取り乱しているのを見ると、自分のほうは意外と落ち着くものだ。これも経験から知っている。
良恵さんは何度も息を継ぎ、言葉をめちゃくちゃに切りながら話し出した。
「それがね、大丈夫だって! ただの過労だって!」
良恵さんの表情は明るかった。私は自分の中で張り詰めていたものがすうっと消えていくのを感じた。
「一緒に仕事をしててね、なんだか顔色が悪いな、と思った矢先に倒れちゃったのよ。おばさん、もうびっくりしちゃって」
よほどびっくりしたのだろう、そのことは、電話の声からも想像できた。そして今は、気が抜けて泣いていたのだ。
「もう処置は終わって、利佳子さん、病室にいるわ。まだ眠ったままだけれど……」
「何号室かわかりますか」
「五〇三号室だったと思うわ。ナースステーションに行けば、先生のお話も聞けるはずよ。それから、入院の手続きとか持ち物が必要だから、あとで受付まで来てくださいって」
「わかりました、ありがとうございます」
本当を言うと、その場に座りこんでしまいたかった。体をまとめて動かしていた糸がぷつんと切れて、今にもばらばらになってしまいそうな気がしていた。けれど私は奥歯を噛んで、良恵さんに頭を下げた。私が崩れるわけにはいかないのだ。
――深夜ちゃんがしっかりしないとね。
そんな私の肩を、良恵さんは抱いて促した。力のこもったその手を不意に振り払いたい衝動に駆られたけれど、拳を握ってそれに耐えた。良恵さんの気持ちは汲むべきだった。
――お母さんを支えてあげないとね。
言われなくてもわかっている。言わなくても、わかっている。皆が母を心配して、私はこの言葉をもう何度も聞いた。でも誰よりもたくさんこの言葉を呟いているのは、他でもない私自身だ。
歩き出した私の前で、山崎さんはわずかに躊躇うそぶりを見せたけれども、結局一緒についてきた。ここまで来た手前、見舞いだけでもと思ったのだろう。
「よかったわね、高岡さん」
優しい山崎さんの笑顔に、ちゃんと笑い返せたという自信はなかった。
病院は嫌いだ。思い出したくないことを思い出す。
ワックスのきいたリノリウムの床。せわしなく行き交う看護婦の影を映してひどく視界にちらつく。つんと鼻をつく薬品の匂い。白い壁。クリーム色のカーテン。白いシーツ。白い白い白い白い。無機質なその色は、溢れ出した感情を雲のように吸収してはくれない。自分の感情が書類の上の活字みたいに並んで見える気がする。
皮肉なことに同じ病院で、私は点滴を受けて眠る母を見つめていた。一年前と同じ病院で。
母の呼吸はとても静かで、一瞬息をしていないのかとひやりとしたけれど、肩まで掛けられた毛布は規則正しく上下している。ほっとしたところに回診中の医師が立ち寄ってくれ、念のため検査をしているけれど、結果が良ければ二、三日で退院できるからと話してくれた。過労というよりは、心労のほうが大きいのではないかと医師は言っていた。最近環境が変わられたようなことはないですか、担当の医師は日に焼けた健康そうな顔でそう訊いた。白衣がひどく窮屈そうだった。
それから私は、入院の手続きと準備をするために家に帰らなければならず、その間母の傍についていてくれると言ってくれた良恵さんを残して、山崎さんと一旦会社に戻った。すべてが流れるよう動いていて、衝撃から立ち直れずにぼんやりしたままの私を残して過ぎていくように感じられた。
再び病院に戻ったのは、辺りが薄闇に包まれる頃で、母はもう目を覚ましていた。そうして付きっきりでいてくれた良恵さんは、また目元をうるませながら、私を迎えてくれた。
まだ起き上がることはできない。目を覚ましたといっても、意識は明瞭ではない。まだどこかぼんやりしたふう、白いシーツ、白い枕に埋もれるようにして、母はごめんね、と弱々しくつぶやいた。
「ごめんね、心配かけて」
「気にしないの。ゆっくり休んで」
私がそう言うと、母は安心したように微笑んで、目を閉じる。そのまますぐにまた、眠ってしまったようだった。その様子が幼い子供のようで、私は思わず唇を噛む。私が傍にいなければ、この人は本当に消えてしまうかも知れない。
「良かったわねえ、深夜ちゃん。利佳子さん、目を覚ましてからずっと、深夜ちゃんのことを気にかけてたのよ」
良恵さんが、母の肩に毛布をかけ直しながら微笑む。たいしたことなくて本当に良かったわねえ、と繰り返した。私は深く、頭を下げる。
「いろいろありがとうございました。良恵さんがいてくださって、本当に助かりました」
「そんな、気を使わないでちょうだいね。私も利佳子さんのこと心配だったんだから」
言って、良恵さんは眠る母を見つめる。
「なんだかんだ明るく振る舞っていても、やっぱりつらいんでしょうねえ。寂しい寂しいって、時々消えてしまいそうな表情をするから、なんだか心配で」
「――え?」
「まだ立ち直れていないのね。一年じゃあ、無理もないわよね」
虚を突かれて、私は帰り支度をはじめた良恵さんを見ていた。
「深夜ちゃん、お母さんをしっかり支えてあげるのよ。深夜ちゃんしかいないんだから」
またちゃんとお見舞いに来るわね、と言い残して、良恵さんは帰っていく。私は半ばぼんやりと、彼女を五階のエレベーターまで見送った。
寂しいなんて、母が私に漏らしたことはなかった。時折寂しそうにはしていたけれど、それを口に出したことはなかった。寂しいと口に出して言ってしまえば、本当に寂しくなってしまう。それはたぶん、二人の間で暗黙の了解となっていたはずだった。
無理をして微笑んでいたのだろうか。そしてそのつらさを、私ではなく、良恵さんに打ち明けていたのだろうか。幼い子供のようだと思った、その手は、私を必要とはしていないのだろうか。
――なんとなく、裏切られたような気がした。
夜更けに、声が聞こえた気がして私は目を覚ました。
市民病院は夜間の家族の付き添いが認められているので、個室であるのをいいことに私は泊まり込みを決めた。検査の結果に問題がなければ、明日には大部屋に移らなければならないから、ゆっくりできるのは今日だけだ。
簡易ベッドから身を起こし、母の様子を確かめる。小さな常夜灯の明かりに照らされて、母はよく眠っている。
毛布が少しめくれていたので、それを直すために、私は立ち上がって母のベッドに近づいた。点滴はまだ続けられていたから、針の刺さっている左腕は残して、肩まで毛布をかける。そうしながら改めて母の顔を見下ろして、そして愕然とした。
いつの間にこんなに痩せたんだろう。
母のふっくら優しい丸みを帯びていた頬が、いつの間にか肉が削げて細く、鋭くなっている。睫毛が影を落とす目の下にはうっすらと隈が浮かび、皺の増えた肌は、年齢以上に彼女を疲れさせて見える。
私は思わず、毛布の端をきつく握り締めた。
気づかなかったことが悔やまれた。毎日顔を合わせて、私は何を見ていたのだろう。こうやってきっと、私は最後の日の父を見逃したのだ。
――良恵さんは、良恵さんなら、見落としたりしないだろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、腹が立つ。今度は見逃してはならない、と思った。今度こそ、見逃したくない。
母がかすかに呻いた。今度ははっきりと聞こえた。
「利佳子?」
飛びつくように母の顔を覗き込んだ私は、その顔が濡れているのを見た。
涙、だった。
苦しげにきつく閉ざされた瞳から涙があふれ、こめかみを伝っては枕に沁みていく。
「ユタカ、裕」
ああ。
殴られたような気が、した。私はゆっくりと身を起こした。傍にあったスツールを引っ掛けたけれど、音は聞こえなかった。耳の奥で声がした。――一年前の、母の声。それから、自分の声。
一年の間に、自分がどれほど回復していたのか、はっきりと突きつけられた気がした。母の声は変わっていない。本当にあのときのまま、母の悲しみは少しも癒えていないのだ。
私が、私だけが、傷をふさごうとしている。私だけが。
同じだと思っていた。母も私も、同じ悲しみの中にいると。けれども、私は確かに立ち直ろうとしているのだった。母の時間はあの時のまま、それなのに、私の時間は気づかない間にもちゃんと進んでいる。それがとても、許されないことのように思えた。
恐れていた事態。
――寂しい寂しいって、時々消えてしまいそうな表情をするから、なんだか心配で。
良恵さんの声が聞こえる。
――まだ立ち直れていないのね。一年じゃあ、無理もないわよね。
悲しみを分かち合うことは、できないのか。それなら、どうすればよかった? どこで、いつから、私の感情は変わり始めたのだろう。
私は、自分が苦しみから逃げ出すことに手一杯で、母の寂しさをわかろうとはしなかったのだ。顔つきと同じに、彼女の感情までもを見逃した。そうして、母を悲しみの中に置き去りにしたのだ。
――深夜ちゃんしかいないんだから。
母は、私と母との悲しみの差異に気づいただろうか。だから、独りで寂しさを抱え込もうとしたのだろうか。
「――金魚」
私は顔を上げた。唐突に、あの白い魚のことが頭に浮かんだ。水を替えてやらないと、餌をやらないと、死んでしまう。私を置いて行ってしまう。
「金魚の世話を、しないと」
私は取り憑かれたようにふらふらと、たぶんふらふらと、病室を抜け出した。
思い出す時間が少しずつ減っていく。
そうやって、忘れることは酷薄なのだろうか、立ち直るのはひどいことなのだろうか。それは、悲しみが薄れるということなのだろうか。癒えた傷が痛まないように、何も感じなくなってしまうのだろうか。
そうじゃない。そうじゃないと思う。
忘れたわけじゃない。感覚は変わらない。その気になれば、一番悲しかったときの感情はいつでもよみがえってくる。あの手のぬくもりも――治療室で最後まで握っていたその心細い温度さえも、声も、笑顔も、思い出も、喪失の悲しみも、何もかも昨日のことのように覚えている。きっと、一生忘れることはない。
でも世界は動いていて、誰かのちっぽけな泣き声なんか無視して朝は来て、私たちは生きていかなくちゃならない。生きていくために、傷ついた心をそのままにしておくのはつらいから、時間の力を借りて心の底に封じ閉じ込めてしまうのだ。それはきっとガラスの棺のようで、よく見えて、でも外側から安心して、再び傷つく心配なく見ていられる。私はたぶんそうやって、悲しかったことを忘れようとした。だから、今は耐えられる。またそのガラスに圧力が加わって、あの時の感情が噴き出さない限りは。
けれど私は、閉じ込めたはずの感情が動くことに動揺しているわけじゃない。逆なのだ、悲しみを閉じ込めることに成功している自分に気づいて動揺しているのだ。父を亡くしたその時から、変わることのないと思っていた感情を、疑いはじめている。
喪ったことが悲しいのだろうか。自分が直面した「悲しい出来事」が悲しいのだろうか。それとも、忘れてしまうことが悲しいのだろうか。忘れることは、悪いことじゃないのだろうけれど。それでも時折、罪悪感のようなものを感じてしまう。私は悲しまなくちゃいけないと思っている。でも、そうやって流す涙は、誰のためのものだろう?
それなら、と思った。悲劇のヒロインではなかった自分を憐れんでいるのだろうか。母のように、どこまでも悲しみには浸れなかった。所詮、夜の温度の人間だ。守られるに値しなかった、周囲から心配されるに値しなかった自分を思って、こんなに涙が出るのだろうか。
自分を憐れんで泣くことだけは、したくないと思っていたのに。
いつのまにかこんなにも闇が濃く、深くなっている。私を取り込む闇。沈んでゆく自分が見える気がする。檻に捕われる。走っているのに、手足が冷たい。ああ、夜の温度だ。全身が青色に浸されてゆく。
どこをどう走ったのかわからなかった。思うように足が動かなくなって、気がつくといつもの細道だった。駅から家へと帰る近道だ。もうすぐ視界が開けるあの場所に出る。
「やあ」
いつもと同じ場所で、微笑んでいる人がいる。いつもと同じ服装、何もかもいつもと同じ。止まった時間。
「どうしたの、コートも着ないで」
私は彼に駆け寄った。駆け寄って、飛びついた。体の内で、何かが暴れ狂っている。走る力の尽きた今、その感情をぶつける術がない。
レイジは少し驚いたようだったけれども、私が泣いていることに気づいて、動かずにいてくれた。夜の温度が私を包み込んだ。
彼は何も訊かなかった。
「私、心がおかしいの」
しばらくして、私は彼の胸に顔を埋めたまま言った。
「いつか誰かが言ってた、寂しいっていう感情は、あるべきものがないときに感じるものなんだって。人間はきっと、生まれたときからみんなどこか欠けてて、それを埋めてくれる相手を探すのよ。だから、その相手がいなければ寂しいの。利佳子は今も苦しんでる。でも、私は違う。私の心は完全体だから。だから、寂しいなんて思わないんだ」
「それは違うと思うよ」
声は静かに降ってきた。私はじっと、夜の声を聞いていた。
「今、君が言ったじゃないか。寂しいっていうのは、あるべきものがないときに感じるって。君の心が完全体なんだとしたら、それは足りない部分がないって事だろう。君にはあるべき欠落がないんだよ。だったら、寂しいのは君のほうだ。君はずっと寂しいままになってしまう」
レイジは優しい。それは私の言葉に対して納得のいく答えだったけれど、認めることはできなかった。自分が感じているこの思いが寂しさだなんて、思わない。
「私、やっとわかった。私は寂しいふりをしているだけなの。自分を憐れむ真似はしたくないといいながら、ずっと誰かの同情を引きたかったんだわ」
――深夜ちゃんがしっかりしないとね。
その言葉はいつだって、私に向けられる。
――お母さんを支えてあげないとね。
私を慰める言葉はない。私の欲しい言葉を、誰もくれない。でもきっとそれは、当然のことなのだ。
「だって、私は自分を哀れむことでしか父の死を悲しむことができないから。利佳子はあんなに、苦しんでいたのに」
だから皆、私に母を託す。そういうことなのだ。
「病院で君が流した涙は、嘘じゃないと思うよ」
「でも――」
それなら何故、母と私の間にはこれほどの差異が生まれたのだろう。
身を起こして反論しかけた私をなだめるように、レイジはやんわりと首を振る。真っ黒い瞳がじっと私を見下ろす。その、吸い込まれそうに深い色。
レイジは首に巻いていた深緑のマフラーをはずし、私の首にそっとかけながら言った。
「自分の感情を疑っちゃいけない。悲しくないはずがない。大切な人を失って、傷つかないはずはないよ」
私は唇を噛んで、首を横に振った。何度も振った。きっと、ずっとその言葉を求めていた。誰かに理解してほしかった。でも、理解してもらって? その次に求めるものは、同情だ。見返りを期待した時点で、私の感情は偽りになってしまう。だから、その言葉を認めるわけにはいかない。
「シンヤ、悲しさと寂しさは、違うんだよ」
レイジは言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「シンヤ、今、君が寂しいのは、本当にお父さんがいないから?」
穏やかに問われて私は、目を見開いた。
「それだけかい?」
「それは――」
答えかけて、言葉につまる。
「君の家族は、お父さんを失うことによってバランスが崩れたんだ」
レイジは私の両肩に手を置いたまま、小さな子供に話しかける時のようにちょっと微笑んだ。
「君がお母さんより早く悲しみを忘れることが出来るのは、君が冷たい人間だからではないし、強いからでもない。さっき君も言ったよね、君にとってお父さんの存在が、君の寂しさを埋めてくれるただ一人の相手ではないからだよ」
睫毛が濃い影を落とすレイジの顔を、私は吸い込まれるように見ていた。今夜も月が明るい。
「君のお父さんは、君のお母さんにとってのすべてだった。その喪失から立ち直るのは、簡単なことではないと思うよ。でも、君は違う。君にとってのただ一人は、誰だい?」
私にとってのただ一人……。
「悲しみをわかってくれるのは、その人ひとりで充分だったはずだよ。それで君の寂しさは埋められる」
私は夜風のように耳に入り込んでくるそれらの言葉を反芻しながら、レイジの白い顔を見ていた。レイジはゆっくりと、手すりの向こうに広がる夜景に目を向ける。
「癒されないとわかっていると言いながら、君は毎晩この夜景を見に来ていた。この街の灯りの中に、君はずっと誰かの姿を探していた。癒されないのは、その誰かが隣にいなかったからだよ」
ただ一人。その相手は。
レイジは、白い頬を見せたままわずかに睫毛を伏せ、それから言った。
「――それは、僕じゃない」
「――え」
私は目を見開いた。彼の背後に広がる空の星が、音を立てて砕けた気がした。
「――どうして」
どうして彼は、そんなことを言うのだろう。
レイジは夜景を見つめたままだった。その横顔は、夜の闇に縁取られて、月の冷たさを映して、ただ静かに佇んでいる。まるで、この夜景そのもののように。
そんなことはないと、私は首を振る。なぜだか、声に力がこもらなかった。
「ここに来ると、楽になれるの。あなたがいたからよ」
無我夢中で病院を飛び出して、私の体はまっすぐにこの場所を目指した。ここに来れば安心できると、苦しみから救ってもらえると、きっと信じていた。
「あなたと私は似ていると思った。あなたなら、私の欲しい言葉をくれると思った。なのに、あなたは違うと言うの」
レイジは私に視線を戻して、首を振った。その瞳は悲しそうだったけれど、哀れむ色では決してなく、静かで、ゆるぎがなかった。
「僕では、君の本当の寂しさは埋められない」
その時だった。いつかの私のように、誰かが枯れ草を踏む音がした。見ると、私が今駆けてきた道とは反対側、展望台からマンションへと続く道への入り口に、立ちすくんでいる人がいた。
「克史くん……」
反射的にレイジから身を離す。
目の前が真っ暗になった。見られてしまった、誤解された、その思いよりも、ただただ克史くんの表情が、びっくりしたように目を見開いたその表情が、私の心を抉った。
レイジもまた、私の隣で驚いたようにしている。私は克史くんの方へ一歩踏み出した。けれど、それから先へ進めない。
「違うの」
言いかけて、その先が続かなかった。何が違うというのだろう。
私ガ、泣キナガラ、目指シタ、相手ハ、克史クンジャ、ナカッタ。
それがすべてだ。それが事実なのだ。私は克史くんを傷つけた。それは彼の表情を見れば明らかだ。――彼を、裏切った。
「克史くん」
克史くんは何も言わなかった。そのまま黙って背を向けて、走るでもなく行ってしまう。
私はただ呆然と、克史くんの後ろ姿が闇の中に吸い込まれるように消えて行くのを見送っていた。動けなかった。走り出したい衝動と、そうできない感情がないまぜになって、私を外灯の光の中に縫い止めていた。
その私の背を、やんわりと押し出してくれたのはレイジだった。
「追いかけないのかい?」
「……え」
「顔に書いてあるよ、彼を失いたくないって」
びっくりして私が振り向くと、レイジは笑った。笑って、手を振った。
「もうわかっただろう? 行っておいで」
その顔が、いつもよりほんの少し、生きている人間らしく見えた。夜の化身ではなく、泣いたり笑ったりする同じ年頃の青年に。
ついに、魔法が解けた気がした。私の感じるこの世界を、悲しみに沈めていた魔法。檻は開かれた。夜の精だと思っていた人は普通の青年で、私を冷たく暗い世界に閉じ込めたりなんかしない。朝が来なければいいと願ったあの日から、捕らわれていた夜の檻を抜け出して、光へ向かって歩き出さなければいけない。自分の、この足で。
慣れ親しんだ夜の世界を離れ、あの眩しいばかりの日差しの下へ飛び出すのは、勇気がいることだ。もしかしたらはじめから檻の扉は開いていて、私はただ外へ出ることをためらっていただけなのかもしれない。
見送る笑顔に、私はうなずいた。
「ごめんねレイジ、それから、ありがとう」
目いっぱい叫んで、身を翻した。克史くんを追うために。
走って走って、マンションへと続く階段の中腹に出たところで、私は足を止めた。上へ行けばマンションに、階段を下れば眠ったままの商店街に向かうことになる。少なくとも階段の下に、克史くんの姿はない。
どこへ行ったのだろう。
あの背中。遠ざかる背中。
階段を上りながら、初めて私は、喪失に怯えた。克史くんを失いたくないと思った。
私はなんてわがままなんだろう。今さらそんなことを思うなんて。――今さら気づくなんて。
克史くんがいなくなる。その先を、私は考えつかなかった。一緒に映画を見たことも、ケーキのイチゴを取り合ったことも、並んで歩いた風景も、つないだ手のぬくもりも、笑いあったことも、喧嘩したことも、当然のようにあった全てが、遠い思い出になる。新しく思い出が加わることもない。二度とあのえくぼを見ることもない。――それは、とても恐ろしいことだった。そんなのは嫌だ。想像するだけで胸がつぶれそうになった。走りつづけているせいだけではない、息が苦しかった。
そして、ようやく気づいた。母はすでにその思いを経験しているのだということに。それは今の私のように自分の不甲斐なさから生まれた結果などではなく、何の前触れもなく訪れて、それなのに彼女は今もその苦しみを抱えているのだということに。これは、私のほうが立ち直るのが早くても仕方ない、それくらいその喪失は大きい。
階段の途中で立ち止まり、振り返る。左右を見回す。克史くん。必死で考える。どこ? でも、頭が働かない。
――いつでも呼べよ。
「克史くん」
――すぐ駆けつけるから。
「克史!」
ああ、どうして私はあの手をとらなかったのだろう。どうして一人で大丈夫だなどと思っていたのだろう。
階段を上りきると、その先の煉瓦の道に、ぽつんと克史くんが立っていた。十メートルほどを隔てて、克史くんと私は向かい合う形になった。
「克史くん……」
私は肩で息をしたまま、次の言葉が出てこなかった。何を言えばいいのか、見当もつかない。
水銀灯の暗い明かりの中で、克史くんの表情は判然としない。彼はしばらく無言で私を見つめたあと、不意に背中を向けた。
「克史くん、待って」
私は慌てて後を追う。克史くんは、いつも彼が怒るときにするような大股ではなく、ただゆっくりとした静かな歩調で煉瓦の道をそれ、駐車場の脇の公園に入った。私が後に続くと、克史くんはまっすぐ外灯脇のブランコを目指して、奥のブランコに腰を下ろした。
「山崎さんから、聞いたんだ。ついでに、菜月さんとも話したよ」
私が近づくと、ブランコに腰掛けたまま、克史くんは言った。私のほうを見ようとはしなかった。
「お母さん、大変だったんだね」
「――うん」
隣のブランコに座ることはためらわれた。他に言うべき言葉が見つからず、私は少し離れたところに立ったまま頷いた。克史くんは、地面に足をつけたままブランコを揺らしている。
「具合はどう?」
「検査があるから二、三日は入院しなくちゃいけないけれど、とりあえずは落ち着いているから、大丈夫。ありがとう」
言った途端に、母の泣き顔が脳裏に浮かんで、私はぎゅっとこぶしを握り締めた。克史くんだって、今そんなことを聞きたいわけじゃないだろうに。
「責めないの。怒らないの?」
克史くんは顔を上げて微笑む。その笑みには力がなかった。
「ミヤちゃんが寂しがってるの、わかっていたんだ。なのに、俺には何もできなかった」
だって、平気だと思っていたのだ。母と私は同じだと信じていたから。父を亡くした寂しさを、二人で抱えていかなければならないと。私が彼女を支えなければならないと。
「寂しそうな顔してたよ、いつも」
私はゆるく首を振る。伏せた目線の先で、克史くんの影が揺れている。
――今、君が寂しいのは、本当にお父さんがいないから?
私が寂しそうにしていたように見えたとしたら、それは、自分では母の胸の空白を埋められないとどこかで気づいていたからだ。涙を隠す母の背に、どこか私の理解を拒む苦しさが漂っていたからだ。悲しみを分かち合えないことを、寂しく思っていただけなのだ。
――悲しさと寂しさは、違うんだよ。
私と母の悲しみは、同じであって同じでない。良恵さんや母の周囲の人間が彼女を気遣うのは、皆、その苦しみが並大抵のことでないと理解できるからだ。そのことに気づかなかった自分の愚かさが腹立たしかった。
「何で怒らないのよ」
座ったままの克史くんを見下ろして、私は言った。こんなことを言うために追いかけてきたんじゃないのに。あやまらなくちゃいけないのに。けれど、克史くんがあまりに静かな表情を見せるので、私はかえって冷静さを失った。
「見たでしょう、私が克史くん以外の男の人といるところを。どうして?」
それでも克史くんは怒らなかった。ブランコが止まる。一瞬だけ何かをこらえるような表情をして、それからうつむいた。
「菜月さんが言ったんだ。ミヤちゃんの気持ちを確かめて来いって」
――あの子は軽い気持ちで誰かを裏切ったりできるような子じゃないの、わかるよね?
菜月ちゃん。
真剣な表情で克史くんを諭している、彼女の顔は簡単に想像できた。いつだって私のことを心配してくれる。父が亡くなった日も、仕事を休んで飛んできてくれた。それなのに、その彼女にさえ、私は自分の苦しみを打ち明けられなかった。ひとつは、それらの苦しみは母と共有するべきだと考えたからであり、ひとつには、ひとりで大丈夫だと思っていたからだ。自分ひとりで、乗り越えられると。
菜月ちゃんだって、とても歯がゆかっただろう。彼女にも、嫌な役目を負わせてしまった。そして、私が言わずにいたことを第三者である菜月ちゃんから聞かされた克史くんなんて、先ほどの光景を見るまでもなく、もう充分につらかったに違いない。これが逆の立場だったなら、私は立ち直れなかっただろう。わかっているけれど、今は素直に謝れない。
「それで? ちゃんと確かめた?」
「確かめたよ。――俺じゃ駄目なんだって」
「私はまだ何も言ってない」
「言わなくてもわかるよ!」
克史くんは声を大きくした。言ってから、はっとしたように唇を噛む。ごめん、と呟くように言って、ブランコの鎖をぎゅっとつかんだ。
「今まで、感情を他人にぶつけたことなんてなかったろ。菜月さんにも、俺にも」
少しためらってから、付け加える。
「彼になら、話せるんだろ?」
「それは――」
私はどう答えるべきか迷って、結局口をつぐんだ。菜月ちゃんの前では胸を張っていることができた。それなのに、レイジのことを、どう考えても克史くんにはうまく説明できないのだった。
しばらく考えて、私は言った。
「私、あの人の本当の名前も住んでいるところも知らないの。あの人はまるで、私の心が生み出した影みたいだった。でも、それでよかったの」
克史くんは何も言わない。
「何も事情を知らない相手だからこそ、話せることもあったのよ。そういう人のほうが、簡単に同情してくれるから」
克史くんが顔をあげた。外灯の弱い光に晒されても、彼の瞳の奥は見えなかった。
「同情が欲しかったの?」
「そうよ。誰でもいいから、かわいそうねって、言ってほしかった。でも、そんなこと口に出しては言えない。そんなの、自分で許せない」
私は一瞬だけ奥歯を噛んで、それから続けた。病院での感情がよみがえってきそうだった。良恵さんの顔を思い出した。
「みんな、大変だったねって、言ってくれるの。それも同情だと思う。でも、その言葉の裏には、がんばってねって意味がある。そう言われるのは、ときどきつらい」
誰に言われるまでもなく、自分が一番がんばらなくちゃいけないと思っているのに。
言いながら、レイジは一言もそんな言葉を口にしなかったことを思い出す。
強い自分でいたかった。いなければならなかったのだ。母が孤独と闘っているように、私も独りで立たなければいけないと思っていた。そうやって、二人で悲しみを抱えていかなければならないと、そうあるべきなのだと信じていた。実際は、それでも私は悲しみから抜け出しはじめていたのだけれど。でもだからこそ、自ら望んで夜に捕われていたのだと、今なら分かる。そうしなければ、母は独りでどんどん悲しみの底に沈んでいってしまうから。私はその手を取り続けるために、浮き上がる体を沈めるために、無意識のうちに体の中に暗く悲しい感情を留めようとしていたのだ。感情を凍らせようと思った。けれどつらくて、苦しくて、ずっと誰かに助けを求めている自分もいて。弱音は吐けないと思っていたから、きっと自分と何の関係もない人に頼ろうとしていたんだと思う。
克史くんは、静かに、でも少し探るように尋ねた。
「もし、彼がもっと親しい人だったら? 話さなかった?」
私は正直に、わからないと答えた。
「でも、もしあの人が私の日常を知っている人なら、私はやっぱり何も言えないと思う」
「……強がりすぎだよ、ミヤちゃんは」
克史くんは、少し悔しそうに言った。私はそれを認めた。
「そうかもしれない」
「彼は、ミヤちゃんの欲しかった言葉をくれた?」
一瞬の間だけ考えて、私は正直にうなずいた。
「たぶんね」
悲しくないはずがないと言ってくれた。大切な人を失って、傷つかないはずはないと言ってくれた。それは確かに、私がずっと欲しかったなぐさめだった。
克史くんが目に見えて落胆するのがわかった。ああ、だめだ。どんな風に言っても、やっぱり克史くんを傷つけてしまう。彼には、先ほど見た光景が何よりも真実なのだから。
私はふと、自分の首に巻かれたマフラーに目を落とした。レイジの巻いてくれた、深緑のマフラーは暖かい。それはもう、夜の温度などではなかった。背を押し出してくれた感覚を思い出した。
私は続けて口を開いた。
「でも、それでわかったの。彼の言葉では駄目なんだって」
「――え?」
克史くんが意外そうに顔を上げる。けれど私は、確信を込めて言った。
「私の欲しかった言葉は、何も知らない相手なら簡単にくれるかもしれない。けれどそれじゃ、意味がないのよ」
克史くんは怪訝そうにしている。
「それで救われるなら、私は街中の人に自分の不幸を言って回るわ。でも、それじゃ駄目なの。悲しみも、寂しさも、そうやって癒されるものではないでしょう」
やっとたどり着いた答えに、涙が出そうだった。ずいぶん遠回りをした。そうして、そのせいで克史くんを傷つけてしまった。
「なんで気づかなかったんだろう、こんな簡単なこと。多分あの人は、はじめからわかっていたんだと思う。私が、何を求めていたのか」
そうなのだ。けれど当の私がそのことに気づかずにいたから、彼は私が気づくまで、つきあってくれたのだ。たぶん。
レイジと出会ったことは後悔しない。けれど、檻の中で出会った彼には、檻を出てしまえばもう会えないだろう。それでいい。そうあるべきなんだろう。
「克史くん」
言わなければ。私は両方のこぶしをきつく握り締めた。
「さっき初めて、克史くんがいなくなるかもしれないって思った」
まだ間に合うだろうか。この声は届くだろうか。遅すぎた私を、許してくれるだろうか。そう考えると、喉の奥が詰まって声が掠れた。
「失いたくないって、思った」
克史くんはじっと私を見ている。克史くんの瞳は、夜の中にあっても真昼の日差しを感じさせてくれる。私はその目を見つめ返す。それから、思い切って頭を下げた。
「わがまま言って、ごめんなさい。でもやっぱり私、克史くんにいて欲しい」
この先も、ずっと。
克史くんは黙っている。私は頭を下げた姿勢で、彼の答えを待つ。彼は怒っているだろう。嫌われたかもしれない。それでもまだ間に合うなら、私の願いを聞いて欲しい。
長い沈黙があった。私は息をつめて、目線の先の克史くんの影をじっと見ていた。その影がためらうように何度も動いては止まるのを、見ていた。
「ミヤちゃん」
優しい声音だった。呼びかけられて、私はゆっくり顔を上げた。克史くんは、淡い笑みを浮かべていた。
「ミヤちゃん」
もう一度言って、克史くんは手招きをした。私はブランコに腰掛けたままの克史くんの前まで近づいて、彼を見下ろした。
「克史くん」
「やっと呼んだね」
見上げる姿勢で克史くんは微笑んだ。微笑んで、私の両手をとった。
対する私は、きっとものすごく情けない表情をしていたと思う。涙が出ないよう唇を引き結んで、彼の手を握り返した。二月の夜の冷気の中で、克史くんの手は包み込むように温かかった。
「もっと早く、克史くんに出会えてたらよかった」
克史くんに出会ったのは、半年前の夏だった。父が亡くなって、ちょうど半年が過ぎた頃だった。
一番つらかったとき、私はどうしていただろう。
独りでいた頃の自分なんて、もう思い出せない。でも、それでいいのかもしれない。
「つらかったね、ミヤちゃん」
その言葉を、私はどれほど聞きたかっただろう。最初からその言葉をくれる人がいたなら、どんなに楽になれたか知れないのに。それだけでよかったのに。
「ミヤちゃん、ちっとも大丈夫じゃないんだよ。俺にはずっと見えてたよ」
「克史くんは、優しいね」
ああ、この人はいつも、私のことを全力で心配してくれている。
「この世界で克史くんに会えてよかった」
菜月ちゃんの言葉は正しかった。
ずっとサインを送ってくれていたのに。ずっと、受けとめていてくれたのに。
私は少しかがんで、克史くんの額に自分のおでこをくっつけた。
「ありがとね」
明け方、克史くんに送ってもらって病室に戻ると、母は目を覚まして私を待っていた。
顔色は夕べに比べるとずいぶん良くなっていて、体を起こしたいというので、手を貸した。
「久しぶりにお父さんの夢を見たわ」
若い頃のね、と言って笑う。付き添い用の簡易ベッドの上には鞄もコートも放り出したままで、夜中に私が抜け出したことに気づかないはずはないのに、それについて母は何も言わなかった。
倒れたままになっていたスツールを起こして、克史くんに勧める。けれど克史くんはそれを断って私を座らせ、自分は一歩下がったところで立っていた。
「お父さん、何か言ってた?」
「あれがしたい、これがしたい、あそこ行こう、ここで遊ぼうって、そんなことばっかり」
夢の中なのにね、と肩をすくめてまた笑った。私も笑って、頷いた。
「私が小さい頃は、あちこち遊びに連れて行ってくれたね」
「出会った頃からそうだった、出掛けるのが大好きで、少しも家にじっとしていないのよ」
こうして母と二人父の思い出を話すのは、ずいぶん久しぶりのことだ。母は懐かしむように遠くに視線を投げる。
「やりたいこと、きっとまだたくさんあったと思うの。叶えてあげたかったな」
克史くんが、そっと私の肩に手を置いた。私は強いて明るく言った。
「お父さん、他には何て?」
母は少しの間、病室の白い壁の、その向こうを見透かすように見つめていたけれど、やがて振り向いて微笑んだ。
「お母さんの笑った顔が好きだから、もっと笑ってくれって。プロポーズのときもそう言われたのよ」
初めて聞く二人の話だった。きっと、今まで大切にしまっておいた思い出なのだ。
言っているうちに母の目に涙が盛り上がり、次々に溢れ出す。そのまま、母は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ごめんね、やっぱりだめみたい。お母さん、泣かないって決めたのに」
「そんなの、気にすることないよ」
私は慌てて放り出したままの鞄を探り、ハンカチを取り出す。母は私が手渡したハンカチで目元を拭いながら言った。
「でも、深夜が泣かないようにがんばってるのに」
私ははっとした。
――寂しい寂しいって、時々消えてしまいそうな表情をするから、なんだか心配で。
そうだったのだ。私が母に涙を見せまいとしていたように、彼女もまた、私の前で泣くことを禁じていたのだ。
お母さん、私は呼んだ。久しぶりに、そう呼んだ。
「我慢するの、止めようよ。寂しくないふりなんてできないんだから、しなくていいよ。あのね、たくさん泣いた方が、早く浮かび上がれるから」
「え?」
母は虚を突かれたように私を見つめた。私は笑顔を作って見せる。
「泣いていいんだよ。笑ってもいいんだよ。生きているんだから。溜め込んだら毒になるよ」
そうしてその重みで、沈んでしまう。夜の底の深みにはまったら、自分ひとりでは抜け出せなくなる。
「つらいのに笑おうとしないで。笑っちゃいけないなんて考えないで。お母さんが一番つらいの、わかってるから」
「深夜」
母は首を振った。それから、ベッドの縁にかけていた私の手に、自分の右手を重ねて置いた。
「誰が一番つらいかなんて、そんなこと考えなくていいの。お母さんと深夜は、家族でしょう?」
涙をこらえようと思ったのに、できなかった。母に手を握られて、私は涙を拭うこともできず、ただ黙ってうなずいた。痩せてしまった母の手は、それでもやっぱり温かい。
「寂しい思いをさせてごめんね」
「それは私の方だよ。お互いに気を使ったつもりが、裏目に出たね」
「駄目な親子だね」
母と私は、目に涙を溜めたまま一緒に笑った。
それから、母は私の背後に立つ克史くんを見た。
「深夜にも、本当に大切な人ができたのね」
うん、と私は頷く。克史くんが思わず姿勢を正すのがわかった。母は微笑んだ。
「深夜をよろしくお願いしますね」
振り仰いだ先、克史くんははにかんだように頷いた。左の頬にえくぼが浮いた。
その夜、私は夢を見た。
灯りの消えた部屋。広い水槽の中に白い金魚が一匹、ぽつりと泳いでいた。いつもの光景。
けれどもそれから、白い金魚は透明な卵をいくつも産んだ。水の中を小さなガラス玉みたいな卵が連なってただよって、やがて中から透明な稚魚が出てくる。産まれたての魚はしばらく透明のまま水槽の中を泳ぎ、そうするうちに内側から点るようにして青い色に変化していった。
青い金魚。
私は不思議な気持ちでその小さな青い金魚を眺めていた。
それから他の稚魚たちも孵り、彼らも透き通る色から次々に変化を遂げ、見る見るうちに水槽の中は色とりどりの金魚たちでいっぱいになった。赤いの、白いの、斑なの、和金、出目金。青い金魚はまぎれて見えなくなってしまった。卵を産んだ白い金魚は、他の白い魚たちの中でもうどれだったか見分けがつかなくなってしまった。
白い和金から黒い出目金なんて産まれたりするんだ、なんて私はおかしく思いながら、それでも飽かず目を細めて水槽を眺めていた。ひどく幸福な気分だった。
よかったね。もう、寂しくないね。
あの日から、レイジは展望台に来なくなった。
夜更けのいつもの場所は、空っぽになった。会ってお礼が言えたらと思ったけれど、会えなくてもそれでいいと思った。借りたままの深緑のマフラーは、ある晩の散歩のときに展望台の手すりに巻きつけておいた。特別彼を探そうという気にはならなかった。いずれは私も夜の散歩をやめるだろう。
レイジは自分のことを一切語らなかった。けれど、夜更けに独り、夜景を見に来ていた彼。彼もまた、癒されたい心を抱えていたはずなのに。
――あなたも、癒されたいんですね。
もっといろいろ話せばよかった、と少し思う。もしかしたら彼は、話したくなかったのかもしれないけれど。
それからしばらく経ったある晴れた休日に、私は一人でバケツを持って近くの池に出かけた。バケツの中には、金魚。池の淵に膝をついてバケツをそっと池に沈めると、しばらくバケツの中を漂っていた金魚は、やがてゆっくりと外へ、池の中へと泳ぎだしていった。
私は月のように白いその姿が池の藻に隠れてしまうまで見送り、立ち上がって空のバケツを手に歩き出した。
「ばいばい」
午後は克史くんとデートだ。昼食をとってから出かけるつもりだから、それまでには帰らなければならない。
母の待つ家へ。