地座魚症候群なんて、初めて聞いた。
俗称なんだって、本当はもっと難しい名前の病気なんだって、銀縁眼鏡の若いお医者はそう言ってた。いろんな説明を丁寧にしてくれたけど、あたしは半分も聞いていなかった。
家に帰ってベッドの上でぼーっとしてたら、タカヤから電話があった。寝転がったまま電話を取って、はい、と答えると、
「どうしたんだよ。元気ねえなあ」
元気な声が耳に飛び込んできた。タカヤはいつもこんな調子だ。のーてんきなタカヤ。あたしは応える気力も出ない。
「ねえタカヤ、地座魚って魚、知ってる?」
「キザウオ? 知らねーなあ」
「ばか、チザウオだよ」
タカヤの声の後から、音楽や人の話し声が聞こえてくる。遊びに出ているのだろう。あたしは聞こえないようにため息をついて、少し声のトーンをあげる。それでもタカヤは、知らないと言った。全然興味なさそうだった。
「なんだよ、それがどうしたんだよ」
「いいよ、なんでもないよ。――用事ないなら切るよ?」
不機嫌そのままのあたしの声に、タカヤがむっとするのが受話器越しに伝わってくる。
「おまえこそなんだよ、病院行くって言ってたから心配して電話してやったのに」
「あんたに心配してもらう筋合いないよ」
瞬間的に苛立ちが走った。あたしは電話を切った。受話器の向こうに広がっていた世界は消えて、あたしは静寂に身を沈めた。
地座魚症候群と言うのは、最近の若い人によくある症状らしい。急に部屋から動きたくなくなったり、やる気を失ったり。突然孤独な気持ちにとらわれたり、あるいはなりたがったり。唐突に周囲との関係を断ち切ったりすることもあるのだと、お医者は言ってた。要するに、地座魚なのだと。
そんなこと言われたって、あたしにはわからない。ほんの少し毎日が憂鬱で、ほんの少し自分を取り巻く環境が煩わしいだけだ。どちらかというと、ナマケモノ。まあ、あたしを診察したお医者も内科医だったから――そもそもお腹が痛くて病院に行ったわけだから――案外適当なこと言ってたのかも知れないな。
あたしはなんだかすべてにやる気をなくして、ただベッドの上に転がっていた。ごはんを食べるのも面倒だった。ぼんやり、開け放しの窓から入ってくる初夏の風に煽られていた。青い空に黄色い月が見えている。
そうするうちにあたしはふと思いついて、机の上のパソコンのスイッチを入れた。インターネットで「地座魚」を調べてみる。情報は思ったより多くて、あたしがよほどものを知らないのではないかとおじけるほど、地座魚は普通の魚のようだった。その生態を除いては。
いわく、泳がない。泳げない。一生を海底に張りついたままで過ごす。生まれてから、死ぬまでを。生態系からはずれてしまった、孤独な生き物。
スキューバが趣味だという人が、自分で海に潜って撮ったという写真をホームページに載せていた。綺麗だと思った。重なり合ったまま、動くこともなく、ただそこにいる。どうしてこんな孤独な存在が、この世にはあるのだろう。輝くような碧い海の中、ぽつりと点る、夜空のような深い青。その姿が、悲しくも美しかった。
本当の地座魚を見てみたいと思った。この目で。けれど、地座魚は南の綺麗で浅い海に棲む。東京湾じゃ、見られない。
やがて検索にも飽き、あたしはまた、鬱々としてベッドで膝を抱えた。何をする気も起きない。タカヤや、他の友達から何度も電話やメールがあったけど、全部無視した。悲しいことに、そういう一切が、今は煩わしいのだった。タカヤは怒ったに違いない。友達ではないけれど、恋人とも言えないタカヤ。心配してくれたのだろう。けど今は、謝る気にはなれない。
あたしはただ、今この瞬間も生きているはずの、寂しい生き物のことを想像した。
碧の楽園と、波に戯れる極彩色の魚たち。その中で泳げない地座魚。
あたしはきっと、似ている。都会の海で、なんとなく疲れて泳げなくなって、ただ頭の上を上手に泳いでいく他の魚たちを見ているんだ。
アパートの三階にあるあたしの部屋の窓がコツン、と鳴ったのは、それから二日後の午後のことだった。
冷房を入れて締め切っていた窓を開くと生温い風が吹きこんできて、それと一緒に街中の音が飛びこんできた。ああ、世界だ。漠然と思った。こうしてあたしが閉じこもっている間にも、休まず動いている。
何のために窓を開けたのかも忘れてしばらく呆けていると、下からあたしを呼ぶ声がした。
「美沙ー!」
なんと、タカヤだった。あたしの部屋の真下に立って、臆面もなく声を張り上げている。あたしが気づいたのを見て取って、タカヤは子供みたいに両手を振って飛び跳ねた。
「降りて来いよ!」
あたしは半ば呆れながら、首を振る。タカヤは手をかざして私を見上げ、顔をしかめてわめいた。
「おまえ、顔色悪いぞ。最悪だな。いいから降りて来いって、今からドライブ行こうぜ!」
ドライブ。外出。しかも、ドライバーは超初心者のタカヤ。とっても行きたくなかったけれど、タカヤはあたしが外に出るまで、その近所迷惑な大声を止めそうになかった。あたしはしぶしぶ、着替えて外に出た。
行き先は、何度聞いても教えてもらえなかった。ドライブなんだからどこだっていいんだよ、そう言って、あたしが休んだ授業の話や、友達の近況なんかを聞かせてくれた。いい奴なんだ。運転は下手だけど。
そのうちに車は大きな駐車場に入って、タカヤは驚くあたしをひっぱりだした。
「タカヤ、ここ――」
「美沙。『地座魚って魚、知ってる?』」
おどけるタカヤの言葉に、あたしは二度びっくりした。
目の前にそびえる色鮮やかな建物。――水族館、だった。
「なんで……?」
タカヤはさっさと二人分の入場券を買い、中へ入っていく。入口でもらったパンフレットを広げ、地座魚のいるという水槽を探しはじめた。
「ねえタカヤ、なんでわかったの?」
あたしが地座魚を見たがっていることを。
「別に。テレビでマリンパークのCMしてたんだよ。それだけ」
パンフレットから目も上げずに、タカヤは言う。
「チザウオ、チザウオ。……いたいた。美沙、見てみろよ」
タカヤが足を止めたのは十メートルくらいの横長の水槽の前で、遠目にも鮮やかな熱帯魚たちがひらひらと泳ぎ回っているのがわかる。あたしは息を飲んで、その水槽に近づいた。
目の前に地座魚がいた。あれほど見たかった地座魚。全長十センチメートルほどの平べったい魚が、重なり合って岩に張りついている。
それは写真で見たのと同じ光景だったけれど、静かに動いているエラや、水流に僅かに揺れる体が、確かに目の前で生きて動いていることを実感させてくれた。ひっそりした存在感があった。
「すごい、タカヤありがとう」
あたしはもう地座魚から目が離せなかった。深い深い、星座が浮かんで見えそうな深い青。水流の加減で、時々お腹の銀色が覗く。魚たちはみな音もなく泳いでいるけれど、中でもやはり、動かない地座魚は静かだった。他の何者にも影響を及ぼさない、ひそやかな存在。そこにいる意味すら、問われるような。
「こんな魚いたんだなあ。オレ、知らなかったよ。何食って生きてんだ?」
「雑食性だから、何でも食べるよ。生まれた時に、まず親兄弟を食べるって言うし」
「げ、怖え魚」
そのとき、小さな藻みたいな塊が沈んできた。それを追いかけて、黄色い熱帯魚が泳いでくる。けれど熱帯魚が藻を食べようとした瞬間、ぱくり、地座魚の一匹が、先にそれを飲みこんでしまった。それは一瞬の出来事で、食べ損ねた黄色い熱帯魚は表情もなく、何事もなかったように、また別の藻を追いかけて進路を変えて行ってしまった。
「なあ、美沙」
タカヤが言った。あたしが水槽から目を離すと、タカヤは地座魚を見つめたまま、ぽつりと言った。
「本当に孤独な生き物なんて、いないんじゃないか」
水槽の光を受けて、タカヤの顔は青かった。
「今の見たろ。ここにあの地座魚がいなけりゃ、さっきの魚はエサにありつけたんだ。でも、エサを横取りされたせいで、あの魚は飢えて死ぬかもしれない。そういうのは、ちっぽけなことかもしれないけどな。そこに存在すること、もうそれだけで、影響っていうのはあるんだぜ」
だからさ、タカヤがあたしを見た。照れたように、少し笑った。
「元気出せよな」
あたしはぽかんとして、タカヤを見つめていた。それを言うために、あたしに地座魚を、本物の地座魚を見せたのだろうか。あたしが連絡を断ってひとり殻を閉じている間に、この人は一生懸命あたしの言葉の意味を考えていたのだろうか。信じ難いことに。
あたしがあんまり見つめているので、タカヤはだんだん居心地悪そうにしはじめ、ついには背中を向けて他の水槽を見に行ってしまった。
地座魚症候群、なんて。あんなお医者の言うこと、真に受けたあたしがばかだった。そうなんだ、地座魚は孤独なんかじゃない。生まれたときからずっと一緒に生きているんだもの、他のどの魚よりも夫婦仲良しよ。それ以上何もいらないし、何も探さなくていいんだ。だから泳がないんだ。孤独だと思っていたその姿も好きだけど、そう考えたらなんて素敵な愛の魚。同じ症候群なら、あたしは断然そっちを選ぶ。
あたしは笑って、タカヤの背を追いかけた。飛びついて、耳元で言ってやった。
「タカヤ、あたしあんたのこと、かなり好きかも」