仕事のせいか治安が悪い環境のせいか、足音がすれば外を見るのが岩田の習慣だった。
その朝も、反射的にガラスのない窓の向こうへと目を走らせた岩田の目に、軽やかな足取りで歩いてくる若者の姿が見えた。
見慣れない少年だった。年の頃は十八、九といったところだろうか。薄汚れた白いTシャツの上から真赤なブルゾンを羽織り、あせた黒のジーンズを履いている。服装だけ見るといかにも渋谷辺りをうろついていそうな若者だが、髪を染めているわけでもなく、姿勢もいい。なによりすっきりと整った顔立ちには表情と呼ぶべきものが欠けていて、岩田はそこはかとない畏怖を感じた。
彼はまっすぐ岩田の棲家を目指していた。岩田はさりげなく視線を手にした新聞に戻したが、彼は窓の前まで来て足を止めると、ブルゾンのポケットに両手を突っ込んだまま、煙草はあるかと短く訊いた。もとより岩田は、この界隈では名の知れた調達屋だ。岩田に頼んで手に入らぬものはないと言われるほど、本人もその腕を自負している。
わざと新聞から目を上げずに、岩田はぶっきらぼうに答えた。
「そうさな、十五分くれりゃあ、手に入る」
しかし彼は首を横に振った。銘柄は問わない、一本でいい、今すぐ欲しいんだ、という旨のことを短く告げた。仕事の依頼ではなかったらしい。
「……見ねえ顔だな。新入りか」
つまらなそうに岩田は呟き、手にしていた新聞紙を投げ出して窓越しに少年に向き直った。
「いきなりやってきて煙草をくれはねえだろ、若いの。名前は」
すると彼はすっと目を細くして唇の端を吊り上げた。どうやら笑ったらしい。
「じいさん、あんた名前なんてあるんか?」
関西地方の訛りの話し方に、響きのいい落ち着いた声は妙に合っていた。
「当たり前だ。おまえはねえのか」
「あらへん。じいさんもそんなもん捨ててしまえや。邪魔なだけやで」
名前を教える気はなさそうだった。諦めて岩田は質問を変えた。
「どこから来た」
「さあ?」
「その言葉からすると、関西出身のようだが」
すると彼は馬鹿にしたように岩田を見た。
「ちゃうちゃう。俺に言葉教えてくれた奴が、たまたま関西の人間やっただけや。言葉とか名前とか、そんなもん、実際には何もあてにならへんで。俺は俺、それで充分やろ」
おかしな奴だ、と笑って、岩田はシャツのポケットから煙草を取り出した。
「セブンスターでよけりゃ、吸いな」
「上等」
火を付けてやると、彼は窓枠に腰かけてうまそうに煙を吐いた。
「あんた、ここの管理人?」
「そういうと聞こえはいいな」
「俺、住むとこ探してるんやけど」
「おまえの狙いは始めからそれか」
彼はちらりと岩田を見、目だけで笑った。岩田は彼のすました横顔を睨めつけた。
「若いもんが、こんな寂れた街に何の用だ? ここはこの通り、面白いもんなんか何もねえぜ」
「若者が来たらあかんのか?」
「ここに住んでるのは行き場のねえ奴だけだ」
「偏見やな。若うたって、行き場のない奴はいくらでもおるで」
少年の言葉は流れるようで、澱みがない。岩田は彼のペースに乗せられまいと、声の調子をいくらか下げた。
「言っておくが、家賃は高いぜ。ここはそんなに甘いところじゃねえ。報酬なしで物が手に入ると思うなよ」
対する彼は、実に飄々としたものだった。
「じゃあ、とりあえず今度の月華賞の勝ち馬を教えてやる」
「今時東京に競馬なんて優雅なもんがあるか」
競馬場は十七年前に倒壊したきりである。馬を世話する余裕のある人間もそう多くはいまい。
「競馬やない、闘犬や。国立競技場跡でやっとる」
「初耳だな」
彼は薄く笑った。触れたら切れそうな笑みだ、と岩田は思った。さっきから彼は、部分的にしか笑みを作っていなかった。目が笑うときは口が、口が笑うときは目が笑わない。この年頃の少年にしてはずいぶん擦れているように、岩田には思われた。
「まあ無理もない、最初は内輪でやっとったさかい。人気が出始めたんはごく最近のことや」
「なるほど、情報屋か」
岩田は合点して頷いた。岩田は頼まれた物資を手に入れてきて金品と交換する。腕がよければ信頼され、信頼されれば街では生きやすい。情報屋は物資の代わりに必要な情報を相手に提供する。どちらも表立っては行動しないが、情報屋は特に好んで闇を渡り歩く。彼のように初対面の人間に情報を売りつけるケースは珍しい。
「しかし情報だけじゃあ、おまえの予想が当たるかどうかはわからねえ。外れたらどうする」
彼は短くなった煙草をふいと捨て、窓枠から飛び降りてそれをスニーカーの踵でもみ消しながら言った。
「じいさん男やったら、たまには博打してもええんやないか?」
「何だと」
今まで腰掛けていた窓枠に肘を付き、彼は岩田の顔を覗きこむように顔を寄せた。
「外れたら俺はここを出ていく。けど、外れるまではここにおる。どうや?」
岩田は至近距離で彼の目を見た。彼は少しも動じることなく岩田の視線を受け入れた。長い睫にふちどられた少年の瞳はひどく薄い色をしていたが、心中を見透かすことはかなわなかった。
「大した自信だ」
「プロやったら自分の仕事に誇りを持つのは当たり前。あんたは自分の腕、信用してへんのか?」
「……月華賞の勝ち馬は」
睨み合ったまま、岩田は鋭く尋ねた。彼は薄い唇を笑いの形に開いてみせた。
「梶山緒元の東国丸」
岩田は溜め息を吐いて短く刈り上げた胡麻塩頭を掻いた。
「地下しか空いてねえぞ。それでよけりゃ、手を打とう」
少年は、ぱちんと指を鳴らして満足そうに頷いた。
「交渉成立」
そして彼は岩田の住むマンションに住みついた。
ハイツトーマ。岩田の住むマンションの、かつての名前。雑居ビルの合間に建っているこの建物は、現在三階分の高さしかない。もともとは十一階建てだったが、十七年前の震災で今の状態になった。頻発する地震のせいで復興もままならず、放置されたままになっているのを発見して岩田が住み着いたのが十四年前。
「呆れた。大当たりだ」
管理人室の札がかかった部屋で、岩田は手もとの紙幣と窓外の少年の顔を交互に見比べた。
日曜日。例の少年が居着くようになって五日目の今日、岩田は彼の言葉に従ってはるばる国立競技場跡まで足を運んだ。果たして彼の言う通りにそこでは闘犬の試合が行なわれており、東国丸という名の土佐犬に賭けた岩田は掛金の五倍の収入を得た。
「俺のこと、信用する気になった?」
ガラスのはまっていない窓枠にもたれて少年が言った。いまだに彼が名を明かそうとしないので、岩田は彼を何と呼んだものかといつも迷う。
「次は来月十五日、豊中記念大会やで」
「しかし、なんでわかったんだ?」
「それは企業秘密」
口の端で笑いながら彼は身を起こし、窓辺を離れた。
「あんたは物資の調達が仕事やろ? 俺が売ってんのは、情報。入手ルートは明さへんのがルールや」
実に彼の言う通りだった。岩田にしても、物資の入手ルートは知られたくないのが正直なところだ。場合によっては法に触れることもある、というのも一つの理由ではあるが、何より他人にそれを利用されてしまうと岩田の商売が成り立たなくなってしまう。
「おい」
薄暗い建物の奥へと向かう背中に、岩田は慌てて声をかける。
「次に部屋が空いたら、おまえさんに譲るよ」
赤いブルゾンの背中が一瞬立ち止まった。振り返らずに、声だけがした。
「ええよ。俺、あそこ気に入ってるねん」
管理人室の小窓から身を乗り出した岩田の前で、少年の姿は通路の暗闇に消えた。
「しかしなあ……」
いいと言っても、地下はもともと駐車場である。人が住むようにはできていないし、地震が起こったときには最も危険な場所になる。どうせがせに違いないと高を括っていたからこそ地下を提供したのであり、本当に居つくとなれば具合が悪かった。しかし約束は約束、いまさら追い出すわけにもいかず、おまけに岩田にしてみればきっちり家賃を払ってくれる人間の存在はありがたい。家賃を滞納する人間がでれば即座に追い出し、彼に部屋を貸そうと岩田は思った。
彼はたいてい夜になると外出する。時間は特に決まっていない。暮れ時だったり夜更けだったり、それは日によってばらばらだ。岩田は一度尋ねたことがある。毎晩毎晩どこへ行くのかと。すると彼は笑って仕事や、と言う。情報だけで食べていけるとは岩田にはとても思えないが、住人に対してあれこれ詮索するのも気が引けるので、それ以上突っ込んだ質問はできなかった。
ある日岩田のところへ彼がふらりとやってきた。例によって部屋の外から窓枠に両腕を乗せると、彼は寝転がってラジオを聞きながら耳垢をとっていた岩田に声を投げた。
「何の用だ」
「三日後の午後三時十七分。来よるで」
岩田は面倒くさそうに首だけで彼を見た。いつもと同じ服装の彼が、無表情に岩田を見ていた。
「何が」
「地震。M三・五。予想最高震度四。明日の朝一番で警報が出るはずや」
「四なら大したことはねえ。――しかし、さすがに早いな」
「当たり前やん。プロやで」
岩田は身を起こすと、彼を手招きした。
「上がれや。ビールぐらい奢ってやる」
「おおきに」
彼は素直に礼を言って、わざわざ戸口のほうから回り込んできた。いつ崩れてもおかしくない建物に住んでいるため、窓もドアも取り払ってしまっている。冬場のみ、ありあわせの紙を貼ってごまかす。
「ああ、やっぱり畳はいいもんやな」
部屋に上がりこんだ彼は、すり切れてぼろぼろになった畳を撫でて呟いた。岩田は冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出すと、一本を彼に渡して胡座をかいた。
「あれ、バドワイザーやん。レアやな」
「畳。欲しけりゃ、手に入れてやるぜ」
彼はビールの蓋を開け、一口飲むとあっさり首を振った。
「気持ちは有難いけど、物は持たん主義やねん」
「なんで」
「俺みたいな風来坊は、物に執着したら生きていけんようになる」
「なるほど」
それきり二人は黙ってビールを飲んだ。つけっぱなしのラジオからは国会中継が流れている。米軍の震災救助を受け入れるかどうかで意見が分かれているらしい。
「なんやまだ揉めとるようやな」
缶に口をつけたまま、彼は目を細めた。
「自分らだけさっさと逃げてもうてからに、何が救助やねん」
十七年前、大地震が東京を襲った。震源は東京湾沖、首都は壊滅状態に陥った。以降、小さな地震は毎日のように起こっている。中規模の地震が起こることもしばしば。頻発する地震のせいで復興は遅れる一方、原因の特定も遅々として進まず、政府はさっさと遷都して地震の少ない京都へ移ってしまった。東京は捨てられたのだ。
岩田はビールを飲み乾すと、空になった缶を握り潰して溜め息を落とした。
「世の中変わったもんだ。なにせ、首都が京都になっちまうんだからな」
「東京は地震が多すぎるよって。予測ができるようなったからって、別に防げるわけやない。ごった返しとるさかい、被害も大きなるしな」
「これ以上悪くはならんさ」
大震災から十七年たった今も、復興のめどは立っていない。このマンションの建つ三等地などはまるで放置されたままだ。電気すら通っていなかったのを、苦労して引いてきたのは三階に住む六助、水道管をいじってくれたのは馴染みの牧瀬だった。
彼は空になった缶を置いて立ち上がった。
「おおきに。ご馳走さん」
「なあに、情報の礼だ」
「情報ついでにもう一つ。その空缶、潰さんと集めて二丁目の大学病院に持ってったら買うてくれるで」
「大学病院?」
「あそこも物資が足りんのや。空缶集めてベッドやら衝立やら作っとる」
岩田は思わず自分の手の中の潰れた空缶を見た。そんな話は初耳だ。岩田も調達を生業としている以上、ある程度情報に通じていると思っていたが、彼は遥かにその上を行っていた。情報量が半端ではない。
「そらまあ、機材足りん言うたら患者も減るわな。公にはせんやろ」
そう言って彼は例の口端だけの笑みを見せた。そしてそのまま部屋を出ていった。後にはぽかんとした表情の岩田が取り残された。
騒ぎが起こったのは、震度四の地震が予測通り訪れた日の暮れのことだった。
地震の度に入念にマンションの点検をするのが岩田の仕事だった。三階の壁の亀裂を調べていた岩田は、階下から聞こえてきた物音と罵声に驚いて二階へ駆け降りた。
十七年前の大震災の時に、このマンションの二階から六階、八階から十階までは完全に潰れてしまっている。現在住人たちが二階と呼んでいるものは実際には七階、三階は十一階に相当する。コンクリートの階段も潰れ、瓦礫に埋もれて使い物にならないので、上の階に住む人間はもっぱら外についている歪んだ非常用階段を利用する。
「どうした、何があった?」
二階の通路に飛び込むと、奥から出てきたらしい瓶底眼鏡の青年と目が合った。山本というその青年は、大震災後に地方の大学から派遣された地震予報士だ。ここに住みついて十年、岩田ともそれだけのつきあいになるが、岩田は未だに山本という人物を掴めないでいる。もちろん年齢差というのも無視できない要因ではあるのだが、それよりも近くの大学の研究室とやらへ通っては付近一帯の地震の予測と対策に余念がないという、研究一色の人間が岩田にはどうにも理解しがたく思えるのだった。
「ああ、岩田さん……」
じきに三十代に突入するだろうと思しき年齢の山本は、ひびの入った眼鏡の奥から怯えた目を非常階段脇の一室に向けた。
「萩原さんと奥さんが……」
山本の言葉に押し被せるようにして何かの割れるような派手な音が響き渡った。続いて怒声。
「いい加減にしろ!」
「あたしが嫌なら別れればいいでしょう? 隠れてこそこそ女作るなんて、最低じゃない!」
「証拠でもあるのか?」
「なによ、開き直るつもり? 往生際が悪いわね。いい加減認めたらどうなのよ」
「……痴話喧嘩か」
岩田はげんなりと息を吐いた。のん気なものだ。
「止めなくていいんですか」
無精髭をなでながら背を向けかけた岩田に、眼鏡の位置を直しながら山本が咎める声を出した。
「気にするな。珍しいもんでもねえだろ」
「でも――」
「放っておけ。あんなもの、犬でも食わねえ」
山本は不満そうだった。今日中に仕上げなくてはならない計算があるんだ、このままでは集中できないと岩田にこぼした。
「気になるんなら、耳に栓でもしてろや」
煩そうに返事をして歩き出しかけたとき、ひときわ高い男の声が聞こえた。
「そう言うおまえはどうなんだ? 地下に越してきた若い男とこそこそ会って、俺が知らないとでも思ったか」
岩田は思わず目を剥いて戸口を振り返った。黄ばんだ花柄の布で仕切られた戸口の向こうで、萩原夫婦の口論は続いている。
「そんなんじゃないわ」
「じゃあ何だ」
「それは――」
女の声がわずかに怯んだ。岩田にはそれで充分だった。とっさに岩田は非常階段を地下へと駆け下りた。
「おい! いるか?」
半分潰れた地下駐車場は、コンクリート片や鉄筋がごろごろ転がっている。場所を提供したのはいいが、岩田もここへ足を踏み入れるのは久しぶりだった。階段を下りたところで左右を見回したが、赤いブルゾンを着た少年の姿はない。日は落ちて、辺りは薄闇が漂い始めている。もう外出したのか。
「俺に何や用か」
背後で声がして、岩田は内心飛び上がらんばかりに驚いた。振り向いたが階段に人影はない。
「ここや、ここ」
再び声がして、岩田はようやく歪んだ鉄の階段の向こうに片手をひらひらと振っている少年の姿を認めた。彼は階段の下に座り込んでいるのだった。
「おまえ、何でそんなところに」
「ここが一番よう聞こえるねん」
彼はのんびりとそう言った。
「何だと?」
岩田は一瞬怪訝そうに彼を見たが、すぐに思い直したように渋面を作った。
「そんなことはどうでもいい。おまえ、萩原の妻に雇われたんだな?」
階段の作る縞模様の陰で彼はわずかに苦笑した。
「じいさん、昔刑事でもやっとったんか?」
「まじめに答えろ。どうなんだ?」
「そないなこと訊いてどないするねん」
彼はゆっくりと腰をあげると、ようやく階段の下から出てきた。伸びをする彼を、岩田は睨みつける。
「おまえ、いつから興信所になったんだ」
「俺は、客に対して知っている限りの情報を話す、それだけや。客は、報酬払って、後は情報の提供者のことを口外せんのやったら、それでええ。得た情報をどう使うかはそいつ次第やろ。情報屋はそこまで関知せえへん」
「いい加減なことを言うな。こうなることをおまえは予測していたはずだ」
肩を回しながら、彼は岩田の方へと歩いて来る。呆れるほど涼しげな顔をしている。
「だったらなんや? 俺に喧嘩の仲裁せえ、言うんか?」
岩田は眉を吊り上げた。前を通り抜けようとした彼の肩を捕まえて、岩田は低く言った。
「よけいな情報まで流すなと言ってるんだ。面倒は起こしたくねえ。こんなところにだって、警察は来るんだぜ」
彼は初めて会った日のように岩田を横目で見、微かに笑った。
「ほな、よう肝に銘じとくわ」
そして岩田の手を軽く払いのけると、彼は階段を上りはじめた。途中、一度だけ足を止めて、振り向かずに彼は言った。
「ああそうそう、新情報や。明日の午前十一時一分、M二・七。注意の範囲や。まあ、晩の予報で言うやろけどな」
彼の姿が階段の先に消えるのを見送って、岩田はため息をついた。彼の言動は岩田には理解しがたいものだった。
園部は今年六十四になる一階の住人だ。大震災で家族とはぐれ、以来一人で街を点々としていたところを岩田に拾われた。出会った頃はまだしっかりとしていたが、最近めっきり老けこんで元気がなくなった。金物を修理して歩くこともほとんどなくなり、日がな一日自室でぼんやりしていることが多い。
見かねた岩田は、ある日園部を碁に誘った。
このところ晴天続きである。鰯雲の並ぶ秋の空を、太陽がゆっくりと渡っていく。
「しかし台風がねえってえのはおかしなもんだな、園部さん」
枯れた畳を敷きつめた四畳半の管理人室で、向かい合って碁を打ちながら岩田はしみじみ言う。異常気象は年々ひどくなる一方で、日本には台風が訪れなくなった代わりに四季の変化が曖昧になった。
子供の頃から毎年台風の直撃を食らっていた岩田のような世代の人間にとっては、茫洋とした季節の移ろいはどうにも物足りない。
「なんかガキ大将がおとなしくなったみてえで、こう、胸の辺りがどうもすっきりしねえ」
「はあ、そうですね」
園部は目をしょぼしょぼさせて相槌を打った。頭髪はすでに雪を被ったように真っ白で、皺の数も岩田の倍はありそうだ。六つ年が離れただけでこうも違うものかと岩田は思う。
「次、園部さんの番だ」
「はあ、そうですねえ」
暖簾に腕押しとはまさにこのことで、手応えのない会話を続けることに岩田は奇妙な苛立ちを覚えた。
「園部さん、あんた最近仕事に出てねえだろう」
「はあ」
「ここでは働かねえと食っていけねえぜ。他人の面倒見る余裕のある奴なんか、ここにはいねえんだ」
「はあ、そうですねえ」
考えているのかいないのか、園部は細かく震える指で石を挟んだまま碁盤を見つめている。岩田は長い溜め息をついた。気長にやるしかあるまい。
胡座をかいた膝を支えに頬杖をついて窓の外を見ると、赤い色が表を掠めた。
「あれ、何や珍しいなあ」
何かと考えるまでもなく、耳に届く関西弁。例の情報屋が行き過ぎようとしたところで足を止め、ひょいと窓から上半身を覗かせた。
「碁なんて打っとるの、久しぶりに見たわ」
「出かけていたのか」
「昼飯食いに行っとったんや」
窓枠に両腕を投げ出して、彼は屈託なく言った。そしてしばらく二人の老人が碁を打つ様を眺めていた。
「……ええ天気やなあ」
度重なる地震のせいでこの辺りの道路は使い物にならなくなっており、通る車もない。嘴太ガラスが三羽、雑居ビルの向こうの大通りで騒いでいる。彼はのんびりと呟いた。
「じいさんたち、暖かいうちに散歩でもしてきたらどうや。ええ気分転換になるで」
「老身に今の紫外線はきつすぎる」
「いやいや、じいさんやからこそ平気なんやで。今時の子供なんかもう、全然あかんらしいわ。抵抗力ないて。今の子供らがどんだけ予防接種受けとるか、じいさん知っとるか?」
「びょういん、いや。そんなこと言うたらあかん。麗奈は強い子になりたいんやろ」
唐突に園部が意味不明なことを口走った。視線は宙に浮いている。
「園部さん?」
岩田が声をかけると、園部は話し出したときと同様いきなり黙り込んだ。そのまま、電池の切れた機械人形のように動かなくなった。岩田は身を乗り出すようにして園部の顔を覗きこむ。小さな目に、眉をひそめた岩田の顔が映る。
しばらくその状態が続いた後、ようやく園部は身じろぎした。瞬きを数回繰り返すと、岩田の顔に焦点があったようだった。
「儂の番ですかな?」
我に返ったように園部が口をきいた。そうだ、と岩田が答えると、園部は微笑した。普段の園部だった。
「いやいや、やはり頭は使わんといけませんなあ。すっかり勘が鈍ってしまって」
先程の言動に対する説明はなされなかった。岩田はそっと窓の外の少年に目をやった。彼は片方の眉を軽く上げてみせた。
そして、園部に向かって声を投げた。
「じいさん、出身はどこや? 震災に遭うたとき住んでたところは?」
園部はしばらく口をもごもごさせていたが、やがて書いてあるものを棒読みするような調子で言った。
「生まれは和歌山です。学生の時分に上京して、嫁さんと知り合いました。結婚してからは、ずっとこっちに住んどりました。故郷へは盆と正月ぐらいにしか帰っとりません。震災に遭うたときは、四ツ谷におりました。孫娘が嫁に行くことになっとったんやけどなあ……」
「ふうん」
少年は、自分から尋ねておいて気のないような返事をした。園部は再び遠くを見る目つきになっていた。
「園部さん、あんたの番だぜ」
「はあ、そうですねえ」
先ほどの繰り返しが始まり、岩田はじれったいやら悲しいやらでもやもやした気分のまま園部の相手を続けた。
気がつくと、窓辺から赤のブルゾン姿はいつのまにか消えていた。通りで騒いでいたカラスの一羽が、奇妙な声で鳴いて逃げるようにどこかへ飛んでいった。
「俺からの頼みだ。園部のじいさんの縁者を捜してやって欲しい」
その日の夕暮れ、いつものように情報屋が出かけようとするところを捕まえて、岩田はそう頼みこんだ。
「もちろん、それなりの報酬は払う」
「お断りや」
わずかに白い目で岩田を見た後、彼は寸分のためらいもなくそう言った。相変わらずの冷めた表情で、岩田を軽く押し退け出ていこうとする。取りつく島もない。
「何も即答しなくたっていいだろう。客としてのルールは守ってるぞ」
「言っとくけど、面倒は御免や言うたんはじいさんの方やで」
彼は振り返りもせずに、面倒くさそうに言った。
「あんたのエゴであのじいさんをこれ以上不幸にするんか? 余裕があったら、縁者の方かて捜しとる。それをせんのは、向こうにも余裕がないからや。収入もない惚け老人抱えて、今度路頭に迷うのは縁者の方やで。そうなったら、じいさんは疎まれた挙げ句に捨てられる」
「馬鹿野郎! 言っていいことと悪いことがあるだろうが」
岩田は思わず激昂して怒鳴りつけた。すでに背を向けていた少年の肩に手をかけ引き戻そうとすると、それを払いのける勢いで彼のほうが振り向いた。
「事実やろうが。実際あんたかてどうしようもないんやろ。縁者捜したいんは厄介払いしたいからや。違うか?」
珍しく声を荒立てた情報屋の態度に、岩田のほうが面食らった。しかも図星だ。本心を言い当てられた岩田は思わずたじろいで、語調が緩んだ。
「……じゃあ、どうすればいいんだ」
「知らん。こういうところでは一人で生きていけんようになったら終わりや。助けたかったら、東京離れて和歌山でも京都でも連れていくんやな。首相官邸の前にでも座り込んどったら、さすがに見殺しにはせえへんやろ」
にべもなくそう言い放って、彼は今度こそ外へ出ていった。岩田は訳もなく苛立ち、そして後悔した。
園部に関する彼の言は的を射ている。親戚、縁者が無事であれば、尋ね人のリストに園部の名前が挙がっているはずである。だが、有線の尋ね人専用チャンネルにも、旧JR各駅に貼り出されるリストにも、園部の名前は含まれていなかった。となると、親戚の方も震災の被害にあって首が回らない状態なのか、最悪の場合すでにこの世にはいないかも知れない。
今、園部の面倒を見ることのできる人間は、岩田をおいて他にないのだ。それに、岩田には園部を拾った責任がある。
三倍近くも年の離れた若者にそれを指摘されて、岩田は恥じ入った。同時に、岩田の言動に腹を立てた彼がこのまま帰ってこないのではないかという不安に襲われ、そしてそんなことで不安になっている自分にまた驚いた。
どうやら岩田は、あの名前も素性も分からないような少年に少なからず好感を抱き始めているようだった。
岩田の不安は杞憂に終わった。
彼はいつものように岩田の知らない間に自分の住処に戻っており、岩田に会うと、今週末あたりボランティア団体から救援物資が届けられそうだと、新しく入手した情報を教えてくれた。園部の話は出なかった。
「このへんやと――そうやな、あの二階の地震予報のにいさんが通てる大学辺りで配ることになるやろうな」
すでに情報屋はハイツ・トーマの全ての住人のプロフィールを把握しているようだった。しかし、やはり名前で呼ぶようなことはしなかった。
仕事から戻ったところで情報屋と出くわした岩田は、入手した「商品」を詰めた紙袋を窓から管理室へと入れながら眉をひそめる。
「いいのか、そんなことを軽々しく俺に話して? その情報だって、売り物なんだろう?」
「一度売った情報や。かまへん」
しれっとしてそう言うと、彼はいつものように口端だけで笑った。
「じいさん、俺の持ってる情報がくだらん気象情報や勝ち馬ばっかりやと思てたら、そら甘いで。簡単に情報流すんは、それがたいした価値がないとふんでるからや。ほんまに大事なことは、そう簡単には口にせえへん」
「……だろうな」
岩田は素直に頷いた。すると彼は小さく笑って岩田の肩を軽く叩いた。
「俺かて情報売る相手は選んでる。場合によっては、先刻みたいな一度売った情報を別の相手に売りつけたりもする。まあ、その分値段は安するけどな。――けど、じいさんには世話になってるから。言うたら、特別や」
岩田は驚いて少年を見返した。並んで立つと、岩田のほうがわずかに上背が勝っている。
「俺は別に何もしてねえぞ」
「ええとこに住まわせてもろてる。それで充分やろ」
一瞬地下駐車場をあてがったことに対する厭味かとも思ったが、どうやら彼は本気でそう思っているらしかった。しかし岩田は太い眉をしかめて警告に回った。地震にあって彼が瓦礫の下敷きになってはかなわない。
「本当にいいのか? 住まわせておいて言うのも何だが、あそこは長くいるには危険だぞ」
「心配せんでも、地震の前には避難してるて。それに、言うたやろ。俺、あそこ気に入ってるて」
「……それならいいが」
本人が平気だと言うものを、これ以上岩田がどうこう口出しできるものでもなかった。何より、この界隈では一番の早耳だろう彼のことだ。地震の情報などさっさと手に入れて、要領よく避難していることに違いない。
「心配してくれて、おおきに」
そっと囁かれた声がいつになく優しかったのに驚いて岩田が顔を上げると、悠然と遠ざかっていく少年の無表情な背が見えた。岩田にはそれが、ひどく寂しいもののように見えた。
それから一カ月ほどは何事もなく過ぎた。
その間に京都では首相が辞任し、大雨続きだった東北地方では米が不作で、政府はアジア諸国から米を輸入する方針を打ち出し、奈良では新たに巨大古墳が発掘されるなど、世間は季節と共に目まぐるしい移ろいを遂げていった。東京だけが、それらの流れから取り残されたように代わり映えのない非日常を繰り返していた。
しかし、時折吹く風に冷たい空気が混じるようになってくると、それに呼応するかのように園部の様子にも変調が現れるようになった。
「園部さん、どこへ行くんだ」
ある朝、踵を踏み潰したぺらぺらのスニーカーを引き摺るようにして管理人室の前を通り過ぎた園部の様子に、ただならぬものを感じた岩田は、手にしていた新聞を放り出すようにして外へ飛び出した。
まるで足の裏が磁石のように地面に吸い付いたかと思えるような奇妙な足取りで、園部はゆっくりと通りへ続く道を歩いている。岩田が声をかけても振り返りもしない。
岩田は小走りで園部に追いつくと、その前に回りこんで老人の両肩を掴んだ。
「園部さん、どうしたんだ?」
園部は濁った瞳で岩田を見たが、無言のまま岩田の手を払おうと身をよじる。口の中でしきりに何か呟いている。
「……行く……」
「園部さん」
「……早く……しないと……」
どうも様子がおかしい。再度強く名を呼ぶと、園部は小さな子供がいやいやをするように体を振り、恐れるような眼差しを岩田に向けた。
突然園部が奇声を発した。驚いた岩田が思わず手を離すと園部はぴたりと叫ぶのをやめ、何事もなかったかのように再び地に足を擦るようにして歩き始めた。
――どうしたんだ? 何があった?
岩田は戸惑いながらも、とにかく園部を止めなければと痩せた肩を押さえにかかった。このまま行かせてはならないような気がした。
岩田に掴まれると、園部はものすごい力でその手を外そうと暴れ始める。岩田は腕力には多少なりとも自信があるし、痩せた枯れ木のような園部に力で負けるとは思っていなかった。しかし暴れる園部の力は予想外に強く、手加減していては振り払われそうだった。そのことに岩田は驚いた。
園部を押さえにかかったのはいいが、どうしたものかと思案に暮れていると、そこに都合よく情報屋が現れた。
「いいところに来た。おまえ、園部さんを押さえるのを手伝ってくれ」
朝帰りの彼は岩田と岩田の手から逃れようともがいている老人とを一瞬物珍しそうに見比べ、それから岩田にではなく園部に声をかけた。
「どないしはったん?」
すると園部はもがくのをやめ、おとなしくしゃべり出した。かさかさにひび割れた唇から漏れた言葉は、しかし普段の園部のそれではなく、東京で生活するずっと前に故郷で使っていたという関西訛りの言葉だった。
「孫の麗奈の結婚式があるんです。それで式場へ行こ思とったのに、何やこの人が邪魔しはるんや……」
情報屋はじっとそれを聞いていたが、おもむろに笑顔を作って頷いた。
「そうですか。それやったら、ウチが案内しますよって。――あ、でも、その前にその服なんとかせんといけませんね。大事なお孫さんの晴れ舞台ですのんやろ?」
「……あれ、ほんま」
園部は自分の服を見下ろして素直に頷いた。
「ほな、行きましょか」
さりげなく園部の肩から岩田の指を外すと、彼は岩田のほうを向いて小声で言った。
「ここは俺に任せてんか」
「わかった」
岩田が頷くのを見届けると、彼は園部を軽く促して大通りのほうへと歩き出した。園部はおとなしくそれに従った。
岩田が管理人室に戻って気を揉みながら待っていると、ほどなく情報屋と園部が何やら親しげに話しながら帰ってきた。管理人室を通り過ぎ、一階の園部の部屋へ入っていく。少しして情報屋だけがぼろ布の下がった戸口から姿を現し、何事もなかったように岩田の待つ部屋へ入ってきた。
「おい情報屋――」
「ああいう時にはきつう言うたらあかんのや。悪意敵意には敏感なんやで」
遠慮なく畳に上がりこんで足を伸ばしながら、開口一番彼はそんなことを言った。
「茶でいいか」
「おおきに」
食器に余分はない。湯飲みは情報屋に貸すとして、自分用には茶碗で代用しながら岩田は温い茶を煎れた。
「なあ、園部さんは――」
その先の言葉を口にしたくなくて岩田が口ごもると、彼はあっさり頷いて忌憚なく言った。
「惚けが始まっとるな」
「……そうか」
「いまさら驚くことないやろ。前からそれらしい症状あったんと違うんか?」
症状はあったのだろう。だが、岩田はそれを認めたくなかったのだ。先ほどの園部の様子を思い出して、岩田は暗澹たる気分に陥った。年の近い園部があんなふうに変わってしまうのを見るのは、岩田には同情以上に胸に迫るものがある。
そんな岩田の心情を知ってか知らずか、彼は一枚の折り畳んだ紙片を飛ばして寄越した。
「ほれ、じいさんの部屋からこんなもん出てきたで」
岩田は茶碗を置いて紙片を受け取った。質の悪いざら紙だ。四つに畳まれた手のひらサイズのそれを広げてみると、中には無愛想な活字が数行、並んでいるだけだった。
結果報告
捜査の結果、貴殿お捜しの
園部綾子 園部修二 園部麗奈 園部譲
の 四 名は 死亡 していることが判明いたしました。
港区被災者相談室
四人の名前と四という数字、そして死亡という文字だけが、作られた余白に黒のボールペンで走り書きされていた。
被災者相談室は、各区が大震災後に設立したもので、主に親類縁者の生死の確認や病院、療養所、仮設住宅といった施設の斡旋などを行なっている。
岩田などが気をまわさずとも、園部は自分で家族の行方を捜していたのだ。しかしそれは、やはり情報屋の言う通り良い結果はもたらさなかった。紙片に日付は印されていなかったが、紙自体はそれほど古びていないことから、園部がこの事実を知ったのはそう昔のことではないと推測できた。
すっかり冷たくなったお茶を口に含んで、彼がぽつりと呟く。
「気の毒に、じいさん、生きる希望を失くしてもうたんやな……」
岩田は胸を衝かれ、紙片をそれ以上見ていることができなかった。元通り折り畳むと情報屋に突き返し、彼がそれを受け取るのを待ち切れずに空いているほうの手で顔を覆った。
「……園部さんは、どうしてる」
覆った手の下から、岩田はくぐもった声を出した。
「ああ、今は眠っとる。久しぶりに歩き回って、疲れたんやろ」
岩田と別れた後、ゆっくり歩きながら話を聞いてやっていると、園部は突然金物の修理が残っているので帰りたいと言いだしたらしい。式場に行くと言っていたことすらすっかり忘れてしまっているようだったと彼は語った。
「心ない嘘を言うても、すぐにばれるんや。かと言って、本当のこと話しても信じてくれへん。親身になって相手の話聞いて、それに合わせなあかん。それがまた難しいんやけどな」
そう言って、彼はわずかに苦笑する。
「出身は違うけど、俺の言葉に関西訛りがあったんで、親近感持ったんやろうな。しきりに孫の友達か、て訊かれたわ」
彼の話は聞こえていたが、岩田は言うべき言葉が見つからず、黙ったままでいた。
岩田は恐かった。いつか自分も園部のようになってしまうのではないだろうか。自分が今の自分ではなくなる。記憶を失くし、何かを失っていく。それは、死ぬことよりも恐ろしいような気がした。
いつのまにか部屋から少年の姿は消えていた。使った湯飲みは律儀にも洗って乾かしてあったが、岩田はそれに気づくこともなく、ただ一人遠慮なく悲痛と向き合えることに安堵を覚えていた。そして同時に、気遣いを見せてくれた情報屋に感謝した。
園部の痴呆は日を追うごとに酷くなり、夜ごとに付近を徘徊するようにまでなった。
夜更けに孫の名を呼びながらふらふらと歩き回る園部を見かねて、岩田はある晴れた日に新宿まで足を伸ばした。
ごちゃごちゃと建物が複雑に並んだ新宿は地震の被害も大きいが、それよりも人々の活気のほうが勝る。半壊した程度のビルには平気で大勢の人間が居着くし、全壊した建物の後にはバラックがいくつも建つ。だが、特に歌舞伎町辺りでの組織やマフィアの抗争は今なお多く、物騒なため、善良な一般被災者は滅多に足を踏み入れないところでもあった。
その歌舞伎町の一角、入り組んだ路地をいくつも曲がった所に、岩田の目指す建物があった。
ビルとビルに挟まれるようにして建つ一軒家。表札すらかかっていない荒れ放題のその家は、一見すると廃屋のようだが、住人はちゃんといる。
たった一人の住人の名は内藤。看板も上げておらず、何が専門なのか実は岩田もよく知らないが、この辺りでは名の知れた医者だった。いわゆる無免許開業医だ。
「よう、まだ生きてたのか」
三十過ぎの働き盛り、派手な色のワイシャツの上に薄汚れた白衣を着込み、手入れの行き届いた茶髪に、ひと昔前のインテリ風の縁なし眼鏡という相変わらずのセンスのない出で立ちの内藤は、岩田を見るなりそう言ってにやりと笑った。
「あんな、いつ崩れるともわからないようなおんぼろマンションに、まだ住んでるのか?」
ハイツトーマのある一角は、実は危険区域に指定されており、周囲には有刺鉄線が張り巡らされている。だが、岩田たちのようにそういうところを好んで住む者は少なくない。
「もう何年も住んでるんだ。引き際は心得ているさ」
そうか、と軽く頷いて、内藤は患者用の丸椅子を勧めた。
「ところで、今日は一体何の用だ?」
「睡眠薬が欲しい」
「眠れないのか?」
「いや、俺じゃなくて園部さんだ。おまえも一度くらい会ったことがあるだろう」
そう言って岩田は、惚け始めた園部の夜歩きをやめさせるために睡眠薬を都合してほしい旨を告げた。内藤はたいして面白くもなさそうにそれらの話に耳を傾けた後、立ち上がって薬品戸棚から薬包を取り出し、岩田に放った。
「睡眠薬は使わないほうがいい。体が薬に耐えられないんだ。スルピリドを出しておくから、どうしようもなくなったときにだけ使いな。面倒かも知れないが、できる限り昼間に寝させないようにして様子を見るんだな」
「恩に着る」
「話を聞く限りでは、典型的なアルツハイマー型痴呆だ。酷くなると、意識障害の前に体のほうがやられちまうぜ。俺としては、そうなる前に福祉センターにでも相談することを勧めるね」
「注意しておくよ」
憂鬱そうに岩田が頷くのを見て、内藤は苦笑を漏らした。
「そう落ちこむなって。皆が皆痴呆になるわけじゃないんだし。そいつのことは、運が悪かったんだと割り切って考えろ。今のあんたみたいに失意やら絶望やらに浸かってるのが、一番危ない傾向だぜ」
言いながら、部屋の隅にある小型の冷蔵庫から缶入りのお茶を出して岩田に勧めた。
「飲めよ。痴呆が気になるんなら、アルコールは控えるんだな」
内藤なりに気を使っているつもりらしい。岩田は笑って、ありがたくそれを頂戴した。
内藤の暮らしぶりは決して贅沢ではないが、それでも充分裕福だった。こういったところでは、ただでさえ医者は重宝がられる。おまけに、内藤はもぐりにしておくのが勿体無いほど腕がいい。もっとも、本人が表に出たがらないのだから勿体無いも何もないのだが。こうやってうらぶれたところでヤクザやチンピラを相手にしているほうが金にはなるし、何より身の安全が保障されている。内藤は金さえ払えば誰でも診るので、いわゆる中立地帯の役割を果たしている。貴重な医者だから、誰も内藤を害そうとは思わないし、食うに困った人々でさえ、組織の報復を恐れて内藤には手を出さない。
そんな内藤と岩田がどうして知り合ったのかと言えば、十七年前の震災で瓦礫の下敷きになっていた岩田を助けたのが、当時医者の卵だった内藤であり、行き場を失くしてふらふらしていた内藤を拾って面倒を見たのが岩田だったのだ。要するに内藤も、短期間とはいえハイツトーマの住人だったのである。
「時に岩さん。あんた、妙な子供を拾ったそうじゃないか」
「子供? ……ああ、情報屋のことか?」
あの少年のことが噂になっているのかと、岩田は眉を寄せる。そんな岩田を、内藤は面白そうに見た。白衣の下のしわしわになったワイシャツの胸ポケットからキャメルを一本取り出し、口にくわえる。岩田は火を貸してやった。
「情報屋だって?」
「ああ。ある日ふらっと現れて、住まわせてくれときた」
「岩さんほどの男が、断れなかったのか? 確か、今は空部屋がなかったはずだろう?」
頷いて、岩田は彼を住まわせることになった経緯をかいつまんで話して聞かせた。内藤は、今度は真剣に話を聞いていた。内藤がキャメルを口にするのは、本気になった時だけなのだ。
岩田が話し終えると、内藤は興味津々といった様子で一つ頷き、
「ふん。そういうことなら、一度会ってみたいな」
と呟いた。傍らのスチール製のデスクの上に置いてあったひしゃげたアルミの灰皿は、岩田が話している間に内藤が喫ったキャメルの吸殻でいっぱいになっていた。
岩田が手渡した薬の代金を数えながら、内藤は組んでいた足を解いて岩田を見た。
「岩さん。近いうちに、邪魔してもいいか」
内藤が興味を示したことに、岩田は少なからず当惑しながら頷いた。
「そりゃおまえのことだ、いつだってかまわねえが――そんなに奴が珍しいか?」
「珍しいとも。岩さんが興味を惹かれるほどの人間なんて、そうそういやしない。俺より美人かどうか、確かめてやるよ」
不意に表が騒がしくなった。どうやら急患らしい。内藤はもらったばかりの代金から紙幣を数枚抜き取ると、それを岩田のポロシャツの胸ポケットにねじ込んでにやりと笑った。
「ついでだ、来週までにいつもの弾、二ケース」
「またドンパチやるのか」
「アズライトの動きが気になるんでな」
言った後で、もちろん俺は観戦だ、と内藤は付け足した。
「だが、自分の身は自分で守らないとな」
元気なものだ、と岩田は呆れた顔をする。
「わざわざ俺に頼まなくても、面倒見てやっている組の者に頼めばいいだろう」
「いや、岩さんのルートの方がモノがいい」
笑を滲ませて言うと、看護婦さえいない診療所の医者は、自ら患者を出迎えるために立ちあがる。
「今は物騒だから、帰るときには気をつけな」
「裏から帰る」
「そうしてくれ」
急患は十中八九組織の連中だ。仲間がやられたときには男たちも気が立っているから、なるべく対面は避けたほうがいい。内藤の忠告に従い、岩田は錆ついた勝手口のドアから外へ出た。
玄関のほうでは、ヤクザ者らしい男たちの騒ぐ声と、それを一喝する内藤の威勢のいい声が響いていた。
岩田が内藤の元を訪れてから三日後、内藤は言葉通りハイツトーマを訪れた。
「せっかく足を運んでもらって悪いんだが、情報屋なら今は出払ってるぞ」
この日に限って、情報屋の姿は朝から見えなかった。
「かまわないさ。待たせてもらうぜ」
「好きにしろ」
内藤はがっかりするでもなく、岩田の部屋に上がりこんでさっさとくつろいでいた。今日は白衣は身に付けていなかったが、セルリアン・ブルーのワイシャツに黒のスラックスといういつもの服装の上から着込んでいるのは、銀の飾りがいくつもついた黒い皮のコートだった。ミスマッチと言えばミスマッチだが、一度見たら忘れないだろう強烈な印象があった。
部屋に入ってもコートを脱がないのを見て、岩田は呆れた声を出す。
「まだそんなもん着なきゃならねえような寒さでもねえだろう」
「白衣よりはましだろ」
内藤は軽く笑って受け流した。
「それより、この間言ってたじいさんの様子はどうなんだ?」
「園部さんだ。おまえもあの情報屋も、どうしてそう名前を呼びたがらねえんだ」
岩田は渋面を作る。内藤はけろりとした表情で言った。
「俺は単に面倒なだけさ。情報屋の坊やは、そもそも自分の名前さえ持ってないんだろう?」
「教えたくねえだけなのかもしれん」
内藤は軽く肩をすくめた。
「どうだろうな――それで、じいさんの話だ」
「園部さんと言え」
効き目はないと思いながらも釘を刺しておいて、岩田は園部の様子を語った。
内藤から得たアドヴァイスを頼りにこの三日間苦労を重ねた結果、園部は昨日の晩になってようやくおとなしく寝ついてくれた。内藤から買った薬は、結局まだ使用していない。
話を聞いて、内藤は尻上がりの口笛を鳴らした。
「いい傾向じゃないか。あんたの愛が通じたんだぜ」
「馬鹿言え。おかげでこっちは寝不足だ」
「そりゃそうだろうさ。ああいうのは、周りの人間の忍耐と愛情がものを言うんだ。苦労するのはこれからだぜ」
「……だろうな」
いずれ岩田一人の手におえなくなるであろうことは目に見えている。岩田だって、自分一人を養っていくので精一杯なのだ。
先のことを想って重い溜め息を吐いたとき、軽い足音と共に情報屋が帰ってきた。
「どこへ行ってたんだ」
部屋の中から声をかけると、ヤボ用、とだけそっけない返事が返ってきた。
「おい、大丈夫か?」
管理人室の前を通り過ぎようとする少年を呼び止めたのは、その様子が常になく憔悴しているように見えたせい、そして応えた声が妙にかすれていたせいだった。
彼は足を止め、振り向いて、平気や、と笑みを作った。その瞳が、岩田の背後でぴたりと止まる。少しだけ怪訝そうにした後、彼は岩田に視線を戻した。
「珍しいな。客か?」
彼の声は、もういつもと変わらぬものになっていた。黙っていたせいで、声が出にくくなっていたのかもしれないと岩田は理解した。
「ああ。おまえにな」
「――俺?」
途端に彼はすっと瞳を細くした。明らかに警戒するような態度に、岩田は出会ってから今日までの間に彼が岩田や園部に対してどれほど気を許していたのかを知ることとなった。
岩田が紹介しようとするより早く、内藤は岩田の横から顔を出して勝手に名乗った。
「初めまして。内藤です」
彼は胡乱げな表情を崩さなかった。内藤のちぐはぐな服装も、妙に場慣れしたような不遜な笑みも、初対面の人間に警戒心を起こさせるに充分なものだった。情報屋のような、ただでさえ警戒心の強い人種にはなおさらだろうと岩田は思ったのだが、内藤を睨むように見つめていた彼は、意外なことを口にした。
「あんた、医者やな」
情報屋の視線を受けたまま、内藤は軽く片眉を上げ、次いでにやりと笑った。疵一つない伊達眼鏡の奥の瞳は、明らかに面白がっている風だった。
「鼻が利くな」
名乗ったときのような猫撫で声はやめたらしく、いつもの内藤の尊大な口調に戻っていた。
「医者が俺に何の用や」
内藤のふざけたような態度が気に入らないのか、情報屋は更に警戒を強めたようだった。
「悪いけど、医者は嫌いやねん」
「ふん。これはまたずいぶんと嫌われたものだな」
内藤は鼻で笑って、腕を腰に当てる。
「別に俺は医者としておまえに会いに来たわけじゃない。岩さんとは古い知りあいなんでね。ここへ来たのは、単純な好奇心ってやつだ」
「医者がこんな情報屋に何の興味や」
「だから医者じゃないって」
言って、内藤は情報屋に顔を近づけた。彼は内藤が近づいた分だけ素早く身を引き、毛を逆立てた野良猫のように身構えてみせた。
「……なんや」
「いや、若い頃の俺を見ているようだと思ってさ」
内藤はからからと機嫌よく笑う。情報屋は当惑の眼差しを岩田に向けた。内藤という人間を計りかねているらしい。岩田は内藤の隣で軽く肩をすくめてみせた。
何をしに来たんだこの男は、という思いが岩田のうちに沸き起こったとき、不意に内藤は笑うのをやめて真顔になった。
「忠告だ、少年。しばらく新宿には近づくな」
「なんやと」
情報屋は低く短く声を発する。精一杯虚勢を張ってはいるが、内藤の前に出ると、彼もライオンの前の仔猫といった感じだ。岩田はひそかに苦笑を漏らした。
しかし、内藤の次の言葉には岩田も笑いを飲みこんだ。
「おまえ、目をつけられてるぞ」
当の情報屋のほうは、驚いた様子もなく内藤を見つめていた。沈黙が流れる。時が止まったように二人は互いの目を見合ったまま動かず、岩田だけがただおろおろと二人を交互に見比べていた。
先に動いたのは少年のほうで、彼は肩の力を抜いて軽く溜め息をつくと、小さく頷いた。
「……わかった。気ぃつける」
そして彼は視線を残すようにして踵を返し、ゆっくりと自分の棲家へと帰っていった。
少年の姿が通路の闇に消えると、岩田は傍らの男を見上げて訊いた。
「どういうことだ? あいつが目をつけられている、というのは」
内藤は岩田を一瞥すると、身を翻して窓辺を離れながら、妙な節回しで新宿を根城にしている組織のいくつかの名をあげた。
「縹組、青井組、劉ファミリー、海藍グループ、紅一族、ウィザードにエンパイア。全部、あの若造を狙っている」
岩田は目を剥いた。
大震災以降も新宿には人が集まり続けている。週単位で生まれたり潰されたりしている小さなものも加えると、歌舞伎町に巣食うヤクザ組織など数えきれない。内藤があげた組織の数はそんな中からすればごくわずかに過ぎなかったが、それでも一人の人間をターゲットにするにしては、その数は尋常ではない。
「本当か」
「当たり前だ。でなくて何で俺があんなケツの青いガキのことを知ってると思う? 奴らは皆、あいつの情報収集の腕を欲しがってる。組織同士の争いに、情報は欠かせないからな」
確かに、彼の情報屋としての能力は卓越していると岩田も思う。だが、それだけで内藤が言ったほどの連中が堅気の人間を追い回すものだろうか。
「あいつは日が暮れるとよく新宿に現れるらしい。仕事なのか、何か目的があるのかは知らんがな。目をつけられたのは、それでだ。黙っててもそれなりに周りの目を引く奴だから、諍いに巻き込まれたことも一度や二度じゃない。加えて、あの人を食ったような態度だろう。今じゃあいつは、新宿ではちょっとした有名人なんだよ」
その少年にそっくりだと言った自分のことは棚に上げて、内藤は滔々と語った。
彼は、と岩田は考えた。
確かに内藤とあの情報屋は、態度といい雰囲気といい、互いによく似ているところがある。だが岩田には、内藤と情報屋はまったく別の人種に見えた。彼は、おそらく内藤ほど強かにはできていない。内藤ほどの生命力が、彼からは感じられない。
そもそも彼は、なぜこんなところにいるのだろう。行き場がない、といつか彼は言っていたが、どうにも進退極まって逃げてきたとか、そういった感じではなさそうだった。岩田がハイツトーマにとどまるのは、もちろん行くあても頼れる親戚もいないということも理由としてあげられるが、何よりこの年になって新しい土地へ行くことに抵抗をおぼえたのと、逃げ出した政府の世話にはなりたくないという意地、そして住み慣れた街を捨ててまでほかに見いだすものがないという一種の諦念のためだ。だが、同じ感情が、まだ若い情報屋にあるとは思えなかった。
彼は、なぜここへ来たのだろう。
「それより、どうするつもりだ」
内藤はもといた位置に腰を下ろすと、窓辺に突っ立ったまま考えに耽っている岩田を見上げてさっさと話題を変えた。強引に思索を中断させられた岩田は、いくぶん不機嫌そうに内藤を見下ろす。
「どうするって、何を」
「決まってるだろう、あの若いのだよ。――あいつ、死相が出てるぞ」
岩田は再び瞠目する。内藤は呆れたようにそんな岩田を見た。
「なんだ、やっぱり気づいてなかったのか」
「し――死相って、まさか……」
信じられないといった態の岩田に、医者らしくない医者は軽く肩をすくめる。
「俺は医者だぜ、見りゃわかるさ。あれは肺をやられてるね。おそらく、そう長くはもつまいよ。この冬を越せるかどうかってところだろう」
岩田は言葉を失って立ち尽くした。自分のことを言われるよりも衝撃は大きかった。
「……奴はそのことを、知っていると思うか」
自分でも不思議に思うほどに、岩田の声には動揺が現われていた。内藤は大した感慨もない様子で、あっさりと思うところを口にする。
「自分が死ぬってことをか? 気づいているんじゃないか? あいつは、あの年頃の子供にしたら静かすぎるよ。何もかも悟りきったような面してやがる」
突然無遠慮な電子音が鳴り響き、何事かと狼狽える岩田の前で内藤がポケットを探った。
「携帯電話か?」
「今は衛星電話の時代だぜ、岩さん」
「豪勢だな」
「悪いな、今日はこれで帰る。またそのうち様子でも見に来るから、まあそれまで頑張んな。無理はするなよ」
取り出した小型の電話を耳に押し当てながら早口にそれだけ言い、挨拶もそこそこに内藤は管理人室を出ていった。
「せわしねえ奴だな」
岩田は内藤の出ていった戸口に向かって呟かずにおれなかった。
あの生傷の絶えないような地区で医者をやっているのだから無理もないとは思うのだが、それにしてもあの男はわざわざやって来て問題を置いていったような気がする。心配事を増やすだけ増やしておいて、何が頑張れだ。
外からは、馬鹿野郎、そんなもんなめてりゃ治る、そんなことでいちいち俺を呼ぶなこの腰抜け、といった内藤の罵声が聞こえていた。
内藤が帰った後、岩田は気になって地下へおりてみた。
情報屋は、昼間でも薄暗い駐車場の、いつかと同じ階段の陰にうずくまっていた。
「おい――」
何気なく声をかけようとして、ようやく彼の様子がおかしいのに気がつく。岩田は思わず声を飲んだ。
「……じいさんか」
肩越しに視線を投げて、彼はくぐもった声を漏らす。同時に激しく咳き込み、喉の鳴るぞっとするような音が地下に響いた。排水口が泡を吹くときのような酷い音がして、口元を押さえた手の隙間から黒いものがしたたり落ちるのが岩田の目にもはっきり見えた。
――喀血。
岩田は自分の体から血の気が引く音が聞こえるような気がした。そんなに悪いのか。
「おまえ――それ、まさか」
「心配せんでも、移らへん」
口ではそう言いながら、情報屋は視線で岩田が駆け寄ろうとするのを押し止めた。岩田は、そんな彼の頑なな態度を苛立たしく思いながらも、その場に踏み止まる。
「大丈夫か」
月並みな言葉しか出てこなかった。彼は暗がりの中で小さく頷いた。
「今に始まったことやない」
そう言うと、彼は腕で口を拭いながら奥の壁にもたれて大きく息を吐いた。歪んだ階段の作る縞模様のせいで、彼は檻の中にいる傷ついた獣のように見えた。憔悴しているようにも見えるが、影になっているため実際の顔色がどれほどのものなのか判然としない。
「いつからだ?」
「さあ? ここに来るより前なんは確かやけど」
瞳を閉じ、息を整えながらも、彼は浅く笑ってみせる。
「俺、震災孤児やねん」
情報屋の唐突な言葉に岩田は眉をぴくりと動かしたが、あからさまに驚いたりはしなかった。
今時東京で孤児は珍しいことではない。政府は彼らのために施設を用意したが、いかんせん子供の数のほうが多く、間に合わせの施設では到底収容しきれなかった。結果、施設に保護された子供たちの何倍にもなる数の子供たちが路頭に迷う始末である。
震災で家族を失った者は多い。岩田とて例外ではない。園部も内藤ももはや家族はいない。今頼りにできるのは、血縁よりも地縁だ、と誰かが言っていたのを岩田は思い出した。
「いつの」
「……十七年前。一等大きいの来よったやろ」
「首都圏大震災の時か」
東京を壊滅状態に至らしめた、言ってみれば全ての元凶のような大震災だ。十七年前と言えば、彼は三歳になるかならないかという年齢だったはずだ。
「何がどうなったかなんて何もわからんかった。気ぃついたら俺は一人で焼け野原歩いとった」
彼は他人事のように淡々と自分の過去を語った。
「その時のごたごたのせいで、予防接種受けそこねてん」
「病院には――」
行けるはずのないことは、岩田にもわかっていた。難しい病気ともなれば、医者にかかる金だけでも馬鹿にはならない。せめてもっと早くに出会えていたなら、内藤に頼ることもできたかも知れないのに。
岩田は唇を噛んだ。
「――すまん。なんでもねえ」
「聞いたんやろ、あの医者に」
何を、とは言わなかったが、それが彼の余命のことを指していることは岩田にもわかった。仕方なく頷くと、彼は微かに顔をしかめる。
「だから、医者は嫌いやて言うたんや」
あっさり内藤に看破されたことが悔しいらしかった。
「あなどれんわ、あのおっさん。やっぱり気ぃついてたんやな」
拗ねた子供のような口ぶりに岩田は苦笑し、慰めるように言った。
「あいつは口は悪いが、医者としての腕はいいからな」
「口だけちゃうやろ。性格も悪いし、服のセンスなんか最悪や」
思わず岩田が内藤に同情したくなるほどくそみそに評しておいてから、彼は小声で付け加えた。
「でも、確かに評判はええ」
まるでよく知っているような口振りに岩田が怪訝そうな表情をすると、彼は自分の耳を指しながら少し笑った。
「会うたんは今日が初めてやけど、噂ならあちこちでよう聞くで。あのおっさんやろ、新宿の影の実力者、いう尾ひれつきの医者は」
「よくも悪くも有名な奴だからな」
岩田は苦笑しながら頷き、先程の内藤の話を思い出して笑いを引っ込めた。
「そうだ、おまえ――」
岩田が最後まで口にする前に、少年は頷いた。
「なんや俺、もてもてらしいな」
「聞こえていたのか」
先回りされ、驚いて岩田が問い返すと、彼は弱々しい笑みを浮かべてみせた。
「ここはよう聞こえる、言うたやろ」
言われて岩田は思わずその場で耳を澄ます。だが、聞こえてきたのは三階に住む六助の調子っぱずれな鼻歌と、二階の萩原夫婦が例によって言い争う声だけだった。確かに音はよく響くが、さして大声でもなかった先程の会話がここまで聞こえるとは岩田には思えなかった。
情報屋は首をひねる岩田を壁にもたれて見つめていた。
「駄目だ。俺にはわからん」
「そう簡単にわかられたら、俺の商売あがったりやで」
満足そうに微笑んで、彼は人指し指で口の端を拭った。先程の血がこびりついていたらしく、手元に目を落として眉をしかめる。
そうだ、と岩田は思い出してズボンのポケットを探った。今にも穴が開きそうなぼろぼろの尻ポケットから、折りたたみ式のナイフを取り出す。柄の部分に透かし模様の入った銀製の逸品だ。以前依頼を受けて手に入れたものの、客のほうがごたごたに巻き込まれて行方を眩ましてしまったため、持ち主がなくとっておいたものだ。何となく思いついて戸棚から持ち出してきたものを、岩田は情報屋に向けて放った。
「おまえにやる。護身用だ。せめてそれぐらいは持ってろ」
わずかな陽光を弾いて銀色の弧を描きながらそれは少年の手に納まり、受け取ったほうは一瞬その輝きに目を奪われたものの、すぐに渋面を作って岩田を見返した。
「いらん」
素直に受け取るとは思わなかったが、あまりにも率直な返答に岩田は呆れて二の句が告げなかった。
「物に執着せんて言うたやろ」
いかにも嫌そうにそう言って投げ返そうとするのを、両手を後ろで組んで拒否しながら岩田はやんわり言った。
「まあそう言うな。人の好意は素直に受けるもんだ。いらねえのなら、ここを出ていく時に返してくれればいい」
「そういうことやのうて」
「もてもてなんだろう。素手で身を守れる自信があるのか?」
彼は何か言い返そうと口を開きかけたが、結局は諦めたように溜め息をついてナイフをブルゾンのポケットにしまい込んだ。
「一応礼は言うとく。――おおきに」
言葉とは裏腹に憮然とした様子の情報屋の態度がどことなく微笑ましくて、岩田は思わず笑みを浮かべる。
「なあに、年寄りのいらんお節介だ」
「ほんまやで」
少年の様子が落ち着いてきたのを確認して、岩田はそろそろ引き上げることにした。園部のことも見に行かねばなるまい。
岩田は情報屋をいたわるるように見ると、息子を諭す父親のような口調で言った。
「わかっているとは思うが、しばらく新宿に行くのはやめておけよ。その身体だ、今日はもう出歩かねえほうがいいぞ」
新宿のような物騒なところへ何をしに行っているのか、は結局訊けずじまいだった。
少年がおとなしく頷くのを見て階段に足を向けた岩田だったが、もう一つ付け加えるべきことが残っているのを思い出す。
「それから。内藤のことだが――さっきのあの医者だ。本人の前で、おっさん、なんて口にするなよ。一瞬であの世行きだぞ」
彼はおかしそうに笑った。
「おっさんはおっさんやろ」
岩田も思わず表情を緩めたが、その後で努めてしかつめらしい表情を取り繕った。
「そうなんだがな。とにかく本人が嫌がるんだ。言っておくが、あいつの腕っぷしの強さは伊達じゃねえぞ。あいつが恐れられるのは、バックに組織がついているからだけじゃねえ。あいつ自身も充分恐いんだ」
「にいさん、言うたら許してくれるやろか」
「さあな」
どこまでも名前を呼びたがらない奴だ、と内心呆れながらも、岩田はその場を後にした。
「来よる」
珍しく情報屋が血相を変えて戻ってきたのは、それから数日たったある夕暮れのことだった。
血を吐いていたあの日以来、彼は特に身体に異変を来すこともなく、落ち着いた日々を送っているようだった。相変わらず夜になると出かけていたが、内藤が怒鳴り込んでこないところを見ると、言いつけを守って新宿へは行っていないようだ。
その彼が慌てたように管理人室の窓に飛びついて、来よる、とだけ漏らした。
「なんだ?」
岩田はてっきりどこぞのグループにでも見つかったのだと思ったが、少年の様子を見るとどうもそうではないようだった。
「明日午前零時一分。M八・三。予想最高震度――八」
「何だと!」
畳に寝そべっていた岩田は、それを聞いて飛び起きた。乏しい明かりの下で、情報屋の顔色は蒼白を通り越して紙のように色がなかった。
「本当か?」
事実なら、大変なことになる。十七年前の悪夢のような出来事が岩田の脳裏に蘇った。
今でも時々夢に見る。家が崩れ、道路が裂け、街は砂塵と炎と煙に覆われ、そして人々の悲鳴が――岩田は未だに助けを求める人々の、恐怖と苦悶と悲痛に満ちた声を忘れることができなかった。今でも脳の深い部分にこびりついている。その震災で岩田は妻を失い、岩田自身も大怪我をしてしばらくは生死の境をさまよった。岩田が助かったのは、ひとえに内藤の尽力によるものだ。
「本当なのか?」
岩田が繰り返すと情報屋はこくりと頷き、続いて唇を震わせた。
「警報……出えへんかもしれん」
「どういうことだ」
「首都圏大震災からこっち、この規模の地震はあらへんかった。だから――しかも、期日は明日、言うより今日の夜中。後数時間。今警報出したかて、完全に街中パニックや。これだけの人間がパニック起こしたらどうなるか――」
確かに被害は小さくなるどころか、都市を逃げ出そうとする人々で近隣の土地まで混乱に巻き込む結果となるに違いない。だが。
岩田は呻いた。
「だから黙ってようって魂胆か」
「このまま公式発表がなかったら、そういうことや……」
畜生、と岩田は叫んだ。政府は、警戒区域を外れた人々は、犠牲の地に居合わせた人間を見殺しにするつもりなのか。それはあんまり不条理だ。
「まるで俺たちに死んでくれと言ってるようなものじゃねえか」
安全圏にいる人間のためにおとなしく死んでやるような義理は、岩田にはない。死にたくない。まだ生きていたい。そう思うのは岩田だけではないはずだ。
岩田は肚を決めた。
「出所は確かなんだな?」
もう一度、念を押す。情報屋は再び頷いた。
「よし、逃げるぞ」
言うなり岩田は立ち上がり、あってないような荷物をまとめ始めた。情報屋は思わず呆気にとられたように、狭い部屋の中を熊のように動き回る岩田を見守った。
「逃げるって、どこへ」
「とりあえずどこでもいい、広いところだ。このままここにいたんじゃ、確実にお陀仏だ。避難する。その間に、できる限りの人間に言ってまわる」
休みなく動き回りながら、岩田はきっぱりとそう言った。もう一刻の猶予もない。まずここの住人に知らせなければならないし、園部の面倒も見てやらねばなるまい。
情報屋が呆けたように立ち尽くしているのに目を止めて、岩田は、何をぐずぐずしているんだ、と眉をつり上げた。
「おまえ、こんなところでくたばりてえのか」
彼は一瞬きょとんとしたような顔をし、それから笑いらしきものを浮かべて首を横に振った。
「だったら黙って見てねえで、せめてここの連中に知らせに行くぐらいのことはしろ」
彼はちらりと廊下の奥に目を走らせたが、すぐに動こうとはしなかった。
「当てはあるんか? 逃げるにしても、東京を出るのは無理や思うで。今からやと間に合わん」
首都だった頃の東京とは違う。電車の本数など、ほとんどどこもかつての半分以下に減っているし、時間が時間だ。下手をすると電車の中で地震に襲われることになる。
岩田だってそれくらいのことはわかっている。ただ他に考えが浮かばなかったので黙っていると、情報屋は意外なことを口にした。
「――おっさん」
「え?」
「新宿に住んどるあのおっさん、あいつにも知らせるんか?」
内藤のことを言っているのだとはすぐに見当がついた。岩田は少し考えてから、頷いてみせた。おそらく内藤も地震のことは知らないだろう。
「ほんなら、おっさん拾ったその足で御苑に行こう」
「御苑か。なるほど」
あそこなら、あるいは難を逃れることができるかも知れない。十七年前の震災の時も、火災など多少の被害は被ったものの大半は無事残った。その時避難所として利用していた人々の多くが住み着いているはずだが、なんとかなるだろうと岩田は踏んだ。瓦礫の下敷きになるよりはいい。
その可能性に、岩田は賭けてみることにした。
「よし、行こう」
古巣を離れる準備の整った岩田は、情報屋を伴い、不在の山本を除くハイツトーマの住人全員に地震の情報を告げてまわった。岩田を信用している六助は慇懃に礼を言ってさっさと姿を眩ました。萩原夫妻はとても信じられないといったふうだったが、情報屋の腕を信用している妻が、じきに夫の方を説得した。園部にもとりあえず事情を説明して、後は本人が理解していようとしていまいと身の回りの品と一緒に連れ出すつもりだった。
問題は出かけているらしい山本だったが、地震予報士の彼が今回の地震を知らぬはずがないと、念のため書き置きだけを残していくことにした。あるいはさっさと自分だけ安全なところへ逃れているのかも知れない。
とりあえずやれるだけのことはやった後、園部を連れた岩田と情報屋は、住み慣れたハイツトーマを後にした。
大通りを東へ向かい、旧JRの駅を目指す。駅に着くまでの数十分はほとんど人に会うこともなく、三人は黙って夜闇の押し寄せる通りを駅へ急いだ。
人気のない通りは妙に静かだった。岩田はなぜなのかとその理由を探り、そしていつもこの時間にはうるさいぐらいに鳴いているはずのすずめやカラスたちの姿がまったくないことに気づいた。街は死にかけているように見えた。
駅で旧JR山手線の新宿方面へ向かう電車を待つ。うまい具合に十五分ほどで電車がやってきた。乗り込むと、そこそこ人の入った電車は、暖房がないにも関わらずむっとするような熱気で満ちていた。岩田は扉付近の椅子に園部を座らせ、情報屋と共に入ってきた扉口に陣取った。
新宿には乗り換えもなく数駅で着く。もはやためらっている暇はないと、岩田は意を決して車内で声を張り上げる。
「今夜午前零時一分、M八・三の地震が来る。予想最高震度は八だそうだ。少しでも安全なところへ避難したほうがいい。それと、できる限り他の奴らにも知らせてやってほしい」
これまで道行く人々に声をかけてきてある程度予想はしていたが、やはり岩田の第一声を聞いた車中の人間の反応は、あまり好意的とは言いがたいものだった。誰もがまず唖然とし、次に失笑し、最後にそれは冷笑に変わる。あちこちで囁きと嘲笑があがりだすと、水を打ったようだった静寂は消え、人々は好奇の眼差しを向けながらも岩田を関心の対象から外し始める。白けたような明かりの下、関り合いになるのを避けるようなそれらの態度に、岩田は何度めかの失望を覚える。
確かに、老人と子供を連れた初老の男がいきなり濁声を張り上げて、それを頭ごなしに信じろというほうが無理なのだろう。情報屋は横を向いてそ知らぬふりを装っているし、園部は車窓から見える景色を眺めながら口の中で何か呟いている。二人はまるで役に立たない。しかし、そうとわかっていても始めから何もしないでいることは、岩田の良心と過去とが許さなかった。
諦めずにもう一度言うべきか、どうしようかと逡巡していると、岩田の前に影が差した。
岩田が顔を上げると、目の前に髪を黄色く染めた背の高い若者が立って、岩田を見下ろしていた。色彩感覚が狂っているとしか思えないようなシャツとズボンのちぐはぐな色合わせ。今時こんな格好の若者がまだいるのかと、岩田は逆に感心した。噛み煙草をくちゃくちゃやりながら、男は気味の悪い笑いを浮かべる。
「じいちゃん、ここ大丈夫か?」
粘つく声で言いながら、自分の頭を指さしてみせる。どことなく鼻に抜けるような発音は、男が日本語をうまく操れていないことを示している。おそらく日本人ではないのだろう、と岩田は見当をつけた。
男の、耳朶がのびそうなほどたくさんのピアスがぶつかりあって、がちゃがちゃと耳障りな音を立てる。岩田は男の揶揄を無視した。
「信じる、信じねえは勝手だが、俺の言っていることは嘘じゃねえ。ぼやぼやしてると、後で後悔するぞ」
男は薄笑いをやめなかった。
「誰が信じるかよ、そんなもん。証拠でもあんのか?」
「情報屋の情報だ。百パーセント信じていい」
男は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。口の中の噛み煙草を床に吐き捨て、哀れみと嘲りの入り混じった目を岩田に向けた。
「ガセだよ、ガセ。あんた騙されたんだ。でなきゃ、とっくに警報が出てるさ」
それはおそらく、その場にいる全員の意見を代表したものだった。実際、男の言葉に頷いた者が何人かいた。
皆信じたくないのだ、と岩田は思った。一人の老人の戯言が現実になることを恐れている。ある程度の年齢に達している者なら、十七年前の悲劇を体で覚えていることだろう。あの時に染みついた恐怖を簡単に忘れてしまえる者は、そうはいまい。大抵のことには動じないはずの岩田でさえ、震災後何年かは精神的な後遺症に悩まされた。今も完全に癒えたとは言いきれない。そしてそういった者が、この街にはまだ大勢いるはずなのだ。
「警報は出ねえ」
岩田は努めて淡々とした口調を保った。岩田が焦れば、必ずそれは伝染する。これからのことを考えると、そういう事態は極力避けねばならない。
「時間が足りねえ。東京中がパニックを起こせば、被害は近隣にも及ぶ。――だから警報は出ねえ」
「嘘だろ」
男は狼狽えた。不健康に濁った目に恐れの色が浮かんでいる。ようやく岩田の話に信憑性を見いだしたようだ。信じていたものに裏切られるという可能性、警報が故意に発令されないという可能性。
首都としての機能を失った東京は、ただの退廃的な街だった。切り捨てるのは容易い。いざとなれば見捨てられる確率は、決して低くはない。岩田は緩く首を振り、その事実を男の前に突きつけた。
「嘘じゃねえ」
「見捨てるって言うのか。――国が、街を」
「そういう時代だ。何かを切り捨てなければ、自身も危うくなってしまう。英雄に任せておけば全ては解決する時代は終わったんだ」
まだ信じられないといった表情で、男はゆっくりと車内に目をやる。死んだような空気の中で、乗客は互いに視線を避けあうようにして黙っている。電車の緩やかな揺れに伴う音だけが、狭い車内を包み込んでいる。
気まずい空気を打ち破るように、男は乾いた笑いを立てた。
「はっ、冗談じゃねえ」
自らの胸のうちに生じた不安を吹き飛ばすように、ことさら威勢のいい声を張り上げる。
「みんなこのじじいのでたらめに決まってるだろ。おまえらまさか、信じてんのかよ?」
言いながら車内を見回す。顔を上げる者は一人としていなかった。そのくせ、それぞれが妙にそわそわと周囲をうかがっている。そのことに男は腹を立て、染めた髪には不似合いな黒い太い眉をつり上げてみせた。
「そうかよ。それならみんな、じじいの言うこと真に受けてさっさと逃げ出すがいいさ。オレは平気だ、逃げたりしねえ」
「逃げへんのやのうて、逃げられへんのやろ」
男の言葉に水を差すように、静かな声が応えた。岩田が見ると、つい先程まで他人事のような顔をして扉にもたれて目を閉じていた情報屋が、男の顔をじっと見ていた。
「逃げへんことが男気やなんて妙なこだわりやで、ほんま」
腕は組んだまま、戸口から引き剥がすように身を起こす。上目遣いに男を見上げて、涼しげな笑みを浮かべた。
「なあ、兄ちゃん。日本人のふりするの、そろそろやめへんか。肩の刺青が泣いとるで」
男は反射的に後へ飛び退った。折悪しく電車が大きく揺れ、男はバランスを崩して情報屋とは反対側の扉にぶつかるようにして無様に尻もちをつく。派手な音がして、その車両にいる乗客という乗客が一斉に男を見たが、男のほうは客など目に入らないようだった。驚愕のためか飛び出しそうなほど見開かれた男の目に映っているのは、解いた腕を無造作にブルゾンのポケットに突っ込んで自分を見下ろしている少年の姿だった。
「サツか、おまえ」
男が無意識のうちに右手で左肩を押さえているのを見て、ようやく岩田は情報屋の言った意味と男の素性に気がついた。
男はいかにも下っ端の下っ端だったが、確かに組織の人間のようではあった。それも、情報屋の言うように肩に刺青を入れているのなら、まず劉ファミリーと見て間違いない。内藤の言によれば、劉はバックを持たない新興の台湾系組織で、決して大きくはないが、ボスである太雷はまれに見るカリスマ的存在で、彼を慕って集まる人間は後を絶たないらしい。そして情報屋が逃げられないと言ったのは、抗争の絶えない組織の人間たちが、過去そうであったように、地震が起きようが津波が来ようが互いに意地を張り合って動かないことを指してのことだろう。
「まさか」
少年は男を見下ろしたままうっすらと笑って首を振る。感情の乏しい顔が、この時ばかりは悪魔的にさえ見える。
「兄ちゃん、何や後ろ暗いことあるんやろ。例えば――密入国とか。いくらこのご時世や言うても、そら警察とは関わりたないわな」
男の顔が目に見えて引き攣った。情報屋は薄い唇を更に笑いの形に引き伸ばしたが、その目は少しも笑っていなかった。それが男の畏怖を倍増させる。
「あ、悪魔か、おまえ」
「せめて鬼、言うくらいのセンスは持っといて欲しいな。阿修羅とまではよう言わんけど」
阿修羅。劉ファミリーの人間が、兄弟の契りを交わしたときに肩に彫るという刺青の図柄だ。
「なんでそれを」
男は理由を知りたがった。彼は男の素性について詳しすぎる。
情報屋は不安のない足取りで揺れる車内を男のもとまで歩いていった。そして男の耳に形のいい唇を近づけると、一言一言区切るようにゆっくり囁いた。
「それは、俺が、情報提供者やから」
その言葉が止めを刺した。今度こそ眦が裂けんばかりに大きく目を見開いて、男は情報屋を凝視した。そんな男を見下ろしてもう一度笑うと、彼は踵を返す。
「じいさんの話は嘘やない。逃げるんやったら、今のうちやで」
大きくはなかったがよく通る声で誰にともなくそう言うと、情報屋は悠々と岩田の立つ扉口へと戻っていく。折よく電車は新宿の駅に滑り込み、開いた扉から彼は下りていった。慌てた岩田が、半ば園部を引き摺るようにしてそれに続く。男はぽかんとしたようにそれを見送り、おそらく何人かはいたであろう新宿で下りるつもりをしていた人間を含む残された乗客も、一様に茫然とした眼差しを奇妙な三人連れに注いでいた。
何事もなかったように扉が閉まり、電車が現実的な音をたてて新宿駅のホームを離れる頃、ようやくのように狭い車内は恐慌状態に陥った。
降り立った新宿の駅は、修復が完全でなく荒んだ色を見せていてなお、活気に溢れていた。生きる活力。その半分がヤクザや不法者のものであったとしても、まれに見る満ち溢れたエネルギーは充分賞賛に値する。
三人は木板で補修されたホームを歩き、トタンとビニールシートで仮設された中央通路を通って東口から外へ出た。構内から表通りまで、さすがに人が多い。夜を迎えてなお賑わう人混みをかきわけ、泳ぐようにして岩田は赤いブルゾンを追いかけた。何度も足を運んだことがあるのだろう、先を行く情報屋の足取りは確かで、迷いがない。岩田が教えずとも内藤の棲家を心得ているようなのはありがたかったが、立ち止まることなく進んでいく彼に園部の手を引きながらついていくのにはかなり骨を折った。
高層ビル群の建っていた副都心とは駅を挟んで反対にあたる歌舞伎町周辺は、度重なる地震のせいもあり、今はごみ箱をひっくり返したようなありさまだ。争い事も絶えず落ち着かないところだが、それでも官僚やビジネスマンたちが撤退し、崩れたビルで墓場のようになっているオフィス街に比べれば、活気があるだけましというものだった。
ごった返す通りを情報屋はどんどん歩いていく。甲州街道をさっさとそれ、岩田にもよくわからないような路地を通って新宿通り、さらに柳通りへ入ってサブナードに至る。セントラルロードを北上、途中で右に折れ、歌舞伎町公園の手前の道へ入ってしばらく行くと、雑居ビルに挟まれた目的地が見えてくる。
「やけに詳しいじゃねえか」
わずかに息を切らしながら岩田が言うと、情報屋は振り向いて微かに笑みを見せた。
「馴染みの場所やから」
最近はとんとご無沙汰やけど、と付け加える。やはり内藤に会ったあの日以来、ここへは来ていなかったのだ。それが内藤の忠告を受け入れてのことかどうかはわからなかったが、岩田はそれでよしとすることにした。
道中組織の人間に見咎められるようなこともなかった。時折目つきの悪い輩が人混みの中を行く情報屋に目を止め、仲間内で囁き交わしているのがわかって岩田は気を揉んだが、当の情報屋はまったく意に介することなく歩き続け、結果誰からも声をかけられることなく内藤の家へとたどり着くことができた。
「内藤、いるか?」
表札も呼び鈴もない、ただの荒屋にしか見えない家の引き戸を開け、岩田は声を張り上げた。中の様子を窺うと、静かすぎるほど静かで患者がいるようでもなかったので、遠慮なく足を踏み入れる。急患が多く、地震に備える意もあって、この家では常に土足が許されている。
「内藤!」
じきに内藤が奥の私室から顔を覗かせて、うんざりしたような声をあげた。
「他人の家に上がりこんで騒ぐな、くそじじいめ。そんな何度も叫ばなくても聞こえてるよ」
「なんだ、客か?」
内藤の他に人の気配を感じて、岩田は驚いたように廊下で立ちすくんだ。内藤の陰になっていて部屋の中は見えなかったが、中の人間のたてる慌てたような物音が聞こえている。
なぜか半裸の内藤は、煙草をくわえたまま不機嫌そうに髪をかきあげる。
「そう、客だ」
言いながら紫煙を岩田に吹きかけたところで、後ろに情報屋と園部がいるのに気づき、物珍しそうに三人を見比べた。
「なんだ、三人そろって。食中りか?」
そんなんじゃねえと焦れながら岩田が言うと、内藤は急に興味を示したように一つ頷き、背後に向かって声を投げた。
「おい、今日はもう帰っていいぞ」
「――女か」
これは岩田一人で来ても追い返されたに違いない。岩田が半ば呆れたように呟くのと同時に内藤が私室の引き戸を押し開け、その腕の下をくぐるようにして一人の女が廊下へ飛び出した。身を屈めるようにして俯いているので顔はよくわからなかったが、きつい化粧と香水の匂い、そして派手な原色の服装は、それだけで女が堅気でないことを物語っていた。
「来いよ。話なら診察室で聞く」
女が逃げるように家を出ていくのを見送ろうともせず、内藤はワイシャツを手にとるとあっさり踵を返した。歩きながらシャツを着こみ、さらに診察室に入って、椅子にかけてあった例の薄汚れた白衣に袖を通す。
戸口のほうを振り返って、情報屋が呟くように言った。
「今の、紅の所の女やな」
肘掛けのついた黒い回転椅子に腰を下ろしながら、内藤は情報屋を見上げた。
「知ってるのか」
「何度か迫られた」
内藤はくわえていた煙草を取り落としそうになった。岩田は目を剥いた。
「本当か?」
笑うでもなく少年は軽く肩をすくめる。岩田は絶句したが、内藤は吸殻で山になっている灰皿に短くなったキャビンを押しつけて、なる程と浅く笑っただけだった。
「あいつは面食いなのさ」
聞きようによっては自慢とも取れる言い方でそう言うと、内藤はさっさと話題を変えた。
「それで? 俺に会いに来たのはそんなことを話すためじゃないだろう?」
そうだ、と岩田はここへ来た本来の目的を思いだし、一気にまくしたてた。
「地震だ。でかいのが来る。逃げるぞ」
内藤は今度は机の上のキャメルの箱を取りあげた。彼は気分によって煙草の種類を変える、一種奇妙な癖を持っている。
「まあ、落ち着けよ。何が来るって?」
「だから地震だ。M八・三が来るって言ってるんだ」
苛々しながら岩田は繰り返す。内藤は火を付けようとしていた手を止め、鋭い目を上げた。
「何だと」
「今晩午前零時一分」
気ばかり焦る岩田に代わって情報屋が答えた。
「震源は」
「例の東京湾らしいで」
「首都圏大震災の、あれか」
まさに直撃だ。このままここにとどまっていては被害は免れない。
内藤は眉をひそめたまま立ち上がり、腕にはめた時計を見た。このご時世に腕時計に衛星電話とは贅沢な、と岩田は密かに舌を巻いた。ここでの町医者稼業は相当儲かっているらしい。
「あと四時間か」
呟いて、険しい目を情報屋に向ける。慌てた様子はなかった。
「警報は出ないんだな」
情報屋が頷く。さすがに内藤は飲み込みが早かった。深く追求するようなことはせず、要点だけを的確に質問する。
「行く当てはあるのか――御苑か?」
「そのつもりや」
情報屋は窺うように内藤を見る。新宿界隈に詳しい内藤の判断を仰いでいるといった風だった。
「じゃあ、行こう。用意するから五分待ってくれ」
内藤の決断は早かった。その後の行動もまた、早かった。五分と言ったが実際は三分ほどで白衣を脱ぎ捨て例の派手なコートを羽織り、医療具を納めた鞄を用意し、水と携帯用の食料品、毛布をそろえた。
「今の季節だ、じいさんたちには毛布くらい必要だろう」
持ち運びしやすいようにまとめられた毛布を情報屋に持たせ、内藤は三人を促した。
「さすがだな。前もって準備でもしていたのか」
素早い対応に岩田が感心してみせると、内藤は軽蔑したような眼差しを寄越した。
「これだけ地震が多発しているんだ、でかいのが来ることだって充分ありうるじゃないか。いつでも逃げ出せるようにしておくのは当たり前だ」
「悪かったな、俺らはおまえみたいに物持ちじゃねえんだ」
「そりゃお気の毒」
岩田は精一杯皮肉を言ったつもりだったが、蛙の面に水とはこのことで、軽く受け流されてしまった。
玄関を出たところで、内藤は扉に張紙をした。岩田が覗きこむと、そこには内藤の角張った大きな字でこう記されていた。
今夜午前零時一分 M八・三の地震が来る。確かな筋からの情報だ。
こんなところに来る暇があったらとっとと避難しろ。
内藤
いかにも内藤らしい文面だ、と岩田は思わず苦笑した。
「俺の家の下敷きになられたんじゃ、さすがに寝覚めが悪いからな」
短く言って内藤は歩き出した。すぐさま毛布を抱えた少年が後に続き、少し遅れて園部を引いた岩田がそれを追った。
内藤といい情報屋といい、親切なのか不親切なのかわからない奴らだ、と岩田は思った。
地下鉄は営団も都営も、すべて潰れてしまっている。御苑へは徒歩で向かった。もとより歩いてもそれほどかからない距離だ。園部を連れていても一時間とかからずに新宿門にたどり着いた。
「さて、どの辺にしようか」
正面の日本庭園と、左手に続く西洋庭園とを見比べながら、内藤が呟く。
かつては新東京百景などとうたわれた御苑だったが、大震災後、ほとんど無傷のようにして生き残った緑の園は、住む場所帰る場所を失った者の新しい棲家となっていた。所管庁であるところの環境庁は遷都の際、被災者のためと称してこの地を手放したらしい。芝生や苔むした地面には所狭しとテントや段ボールの家が並び、今や庭園の趣などかけらも残っていない。
「水に近いほうがいいな。――中の池辺りでどうだ」
異議を唱える者はなかった。日本庭園と西洋庭園の中間にあたる道を中の池のある南東へと歩きだしながら、内藤と肩を並べた情報屋が何気なく訊いた。
「ここのもともとの持ち主やった高遠藩主内藤氏って、あんたの先祖か何か?」
「まさか」
内藤は軽く笑った。
「偶然だ偶然」
なんや、と呟いてそれきり少年は押し黙った。後ろからその様子を見ていた岩田は、彼が内藤に対しても少しずつ心を開き始めていることに敏感に気づいた。もともと感情らしい感情を表わすことの滅多にない少年だったが、それでも岩田は、彼の表情の、瞳の、態度の微妙な変化から心の断片を読み取るぐらいはできるようになっていた。そして少年のほうもまた、初めて出会った頃にまとっていた得体の知れない雰囲気が少しずつ払拭されつつあるのだった。
「なんやじいさん、一人でにやにやして」
不意に振り向いた情報屋が、気味悪そうに岩田を見て言った。
「気持ち悪いぜ、岩さん」
内藤も振り替えって顔をしかめたが、岩田は笑いを止めることができなかった。並んだ内藤と少年は、こうして見ると歳の離れた兄弟か親子のようにも見える。それが岩田には可笑しかった。
「言いたいことがあるなら、言えよ。後で後悔しても知らないぜ」
「なんでもねえ」
苦労して笑いを引っ込めると、岩田は首を振った。ここへ来て自分たちが家族のように感じられるなどとは、気恥ずかしくてとても言えなかった。言ったところで彼らはそんなふうに思っていないだろうから、再び変人扱いされるのがおちだ。
広い庭園内を時間をかけて中の池の周辺まで行くと、思った通り、池のほとりの芝生でもテントがひしめきあっていたが、四人はうまい具合に落ち着ける場所を見つけることができた。先日そこに住んでいた老女が亡くなったばかりなのだと、空き地を教えてくれた中年の男は言っていた。岩田は何となく落ち着かない思いを感じたが、内藤も情報屋も気にはしていないようだったので、特に口を挟むことはしなかった。それに、そんな場所でもなければうまく空いているはずもない。贅沢は言えないのだ。
土の上に岩田の持ってきていたビニールシートを広げ、毛布を敷いて園部を座らせる。疲れの出ていた岩田はその横に自分も腰を下ろしたが、少年は池に駆け寄ると暗い水面に目を凝らし、残念そうに呟いた。
「夏やったら、この池も睡蓮でいっぱいなんやけど」
「見物に来たんじゃねえぞ」
呆れたように岩田が言うと、彼はつまらなそうに引き返してきながら反駁した。
「ええやん、別に他にすることもないんやし」
それから、早速煙草をふかしている内藤に声をかけた。
「ちょっとその辺ぶらついてきてもええか?」
「おい」
岩田が抗議の声をあげかけたが、内藤はあっさり承諾した。
「いいだろう。ただし御苑からは出るなよ。それから、十二時前にはここへ戻ってこい」
「了解」
頷くと、情報屋は立ち並ぶテントを縫うように横切り、刈り込みの向こうの暗がりへ姿を消した。
「どうして行かせたんだ」
少年の姿が見えなくなった後、思わずのように岩田がなじる調子の声を出すと、煙草をくわえたままの内藤は逆に問い返してきた。
「どうして行かせたくないんだ」
岩田は思わず答えに詰まる。
「それは――だって、危険だろう。新宿に近づくなと言ったのはおまえのほうじゃなかったのか」
「御苑の中なら、少なくともしばらくは大丈夫さ」
投げるように言って、内藤は岩田に向けて紫煙を吐き出す。
「岩さん、少しあいつに構いすぎだぜ? あいつはあんたの息子でも孫でもない。もう少し自由にさせてやれ」
内藤に言われて、岩田は思わず唇を噛んだ。先ほどの自分の思いを内藤に見透かされているような気がした。
自分は今、よほど傷ついた表情をしているのだろう。内藤の哀れむような眼差しを見ればそれがよくわかった。
「……わかっているさ」
我ながら情けない声だと岩田は思った。そんな岩田を見つめながら、内藤はためらいがちに付け加える。
「あいつはプライドだけは恐ろしく高い。人前で血なんか吐きたくないんだろう」
「そう――なのか?」
岩田は喉まで出かかっていた怒りも羞恥も忘れ、医者らしくない医者を見つめた。
「おそらくな。顔色がなかった。汗をかいているのに、指先は冷たかった。具合が悪いんだろう」
土に擦り付けて煙草をもみ消した内藤が、その時だけ珍しく憂鬱そうな表情を見せた。
岩田は自己嫌悪に陥った。医学の知識はまるでないにしても、少年の変化に気づいてやれなかった自分が腹立たしい。
「何か――そう、何か打つ手はねえのか? このままじゃ、あんまり――」
すがるように内藤を見たが、今度は無下にあしらわれた。
「奴が可哀想だってか? はん、今の東京、可哀想な子供なら掃いて捨てるほどいるに違いないぜ。拾ったあんたがなんとかしてやりたいと思う気持ちもわからなくはないが、悪いことは言わない、諦めろ」
内藤は頭の後ろで手を組みながら、仰向けにシートに倒れ込む。星のない夜空を見上げながら、溜め息をつくように付け足した。
「本人が諦めているものを、周りの者がとやかく言ったって始まらんだろう」
「諦めて――? まさか」
「ああなるまで放っといたってのは、打つ手がなかったからに決まってるだろう。金がないか、技術がないかだ」
言って目を閉じた内藤を見下ろしながら、岩田は深く息をつく。内藤の言う通りだった。
ただ、それでも岩田は諦めたくないと思った。彼には、そうやって簡単に諦めて欲しくはなかった。
地震は今回も情報屋の言う時刻にやってきた。警報は最後まで出なかった。
最初は腹の底に響くような地鳴りだった。頻繁に起こる中小規模の地震のそれとは明らかに違う。地面の上に横になっていた岩田は、地獄の底から沸き上がってくるような恐ろしい音に身体が震え出すのを止めることができなかった。同じだ、と思った。十七年前のあの時と、同じだ。
「麗奈!」
園部が叫んで立ち上がった。これまでからは考えられないような機敏な動作で駆け出そうとするのを、岩田と内藤とでとっさに押し止め、懸命に宥めているうちに地鳴りは突き上げるような激しい揺れに変わった。
建物の中にいなくても、周りに揺れるものがなくてもはっきりわかるほどの、強い揺れ。池が波打ち、周囲の木々がざわざわと騒ぐ。地下からハンマーで叩かれるような衝撃に、眠りについていた人々は飛び起き、悲鳴があちこちからあがったが、この場所が他よりも安全であることを理解しているのか、それほどパニックに陥るようなことにならずにすんだ。
揺れは思ったよりも長く続いた。あるいは恐怖がそう感じさせたのかも知れない。岩田は園部と一緒になって必死に大地にしがみつき、ただ悲鳴を上げ続けた。死神が腹を抱えて笑っている、その波打つ腹の上にいるようで、生きた心地がしなかった。ただ夢中で地獄の使者が一刻も早く通りすぎることを祈った。
揺れがいつのまにかおさまっていることに岩田が気づいたのは、実際に地震が去ってしばらくしてからのことだった。波が少しずつ引いていき、最後に静寂が残った後も身体の震えが止まらず、いつまでも地面が揺れているような感覚が残った。
「岩さん、大丈夫か」
内藤に呼びかけられて岩田は頭を抱えるのをやめ、おそるおそる顔を上げた。周囲を見回しても人々の興奮が余韻を残しているだけで、離れたところにある木々のシルエットが歪に見えること以外、崩れるようなもののない庭園内は地震の前とほとんど変わるところがなかった。
「じいさんも、ほら」
岩田の無事を確かめた内藤は地面にしがみついたままの園部を起こしにかかっている。その平然とした態度を見ているうちに、岩田も少しずつ落ち着きを取り戻すことができた。
内藤は、動揺などは決して他人に見せない男だった。他者に対しては常に完璧でいたがるのだ。だが、それを実行しているのだからすごい。感心した岩田は、次の瞬間情報屋のことを思い出してその姿を闇の中に探した。
彼は少し離れた植え込みの陰にうずくまっていた。こちらに背を向けているので、様子がよくわからない。岩田はふらつきながら立ち上がり、まだ震えの止まらない自分の身体を懸命になだめながら情報屋のそばまで歩いていった。
声をかけようと少年の肩に手を伸ばした岩田は、彼の肩がひきつけでも起こしたように震えているのを見て驚いた。
少年は、両手で自分の肩を抱くようにして必死で震えを押さえようとしていた。けれどもその手の下で身体はどうしようもなく暴れている。
「どうした?」
園部を落ち着かせることに成功したらしい内藤が、岩田の背後から情報屋を覗きこむ。岩田は片手で内藤を制しながら首を振った。
「わからん。震えが止まらんらしい」
「それはあんたもおなじだろう」
軽く揶揄するような内藤を後目に、岩田はゆっくりと少年に近づいた。回りこんで少年の正面に回った岩田は、固く瞳を閉ざした少年がうわ言のように何か呟いていることに気づいた。
「父さん――母さん、母さん!」
岩田は自分が震えることも忘れて少年の肩を抱いてやった。岩田の手の下で、少年の身体は狂った獣のように暴れ出そうともがいている。
「しっかりしろ、もう大丈夫だ」
小さな子供をあやすように何度も軽く背中を叩いてやると、少年の震えは少しずつ弱まり、やがて両親を呼ぶ声も小さくなっていった。
「地震はもうおさまった。恐がる必要はねえ、大丈夫だ」
余震は続いていたが、それは本震の比ではない。もう大丈夫だと半ば自分に言い聞かせるようにして繰り返しながらも、岩田は内心ひどく驚いていた。感情を見せたがらない少年の本当の姿を見たような気がした。
「俺――思い出した」
しばらくして、少年は閉じていた目を開き、そう漏らした。少年は泣いていた。
「俺、前に震災孤児や言うたな。けど、震災で親が亡うなったわけやない。俺はあのとき捨てられたんや」
いつか、気がついたら焼け野原を歩いていたのだと言った彼の言葉を思い出した。岩田は黙って少年が続きを話すのを待った。
「十七年前の地震があったとき、俺は両親と日本橋の辺りにおったんや」
「中央区――最も被害の大きかった辺りだな」
岩田に身体を預けたまま、少年は微かに頷いた。
「あの時――地震で建物が崩れてきたとき、母さんは俺を逃がそうとして、自分が逃げ遅れたんや。瓦礫の下敷きになって、それでもしばらくは生きとったんやけど、三日たっても救助は来んかった。何もできん俺と父さんの目の前で、母さんは死んだ。父さんはそのことで俺を恨んで――俺を捨てたんや」
岩田はかけるべき言葉が見つけられず、ただ黙って少年の肩を抱いた腕に力を込めた。
震災後の東京では珍しくない話だった。内藤の言う通り、親を失い、あるいは親に捨てられた子供は星の数ほどいるのだろう。けれど、それでも目の前で震えて泣いている子供を哀れまずにはいられない。
少年は声を詰まらせ、自嘲するように小さく笑った。
「俺……変やな。こんなことじいさんに話しても何にもならへんのに」
「そんなことはねえさ」
彼はようやく落ち着きを取り戻したようだった。徐々にいつものような無表情の仮面が戻りつつある。一時でも他人の前で取り乱したことを恥じているようでもあった。
再び地の底で低い唸りが響いたが、少年は一瞬身を固くしただけで余震の揺れに耐えた。
「じいさんには、妙なとこばっかり見られてる気ぃするわ」
揺れがおさまると少年は何事もなかったように勢いよく立ち上がり、伸び放題の下草を踏み分けてシートのある場所のほうへ歩いていった。途中、根が浮いて大きく傾いだ木にもたれて立っている内藤に気づき、少しだけばつが悪そうにそのそばをすり抜けた。内藤のほうが、通りすぎる情報屋に一言声をかけた。
「無理するなよ」
情報屋は一瞬足を止めたが、振り返らずに片手を軽く上げて応えてみせた。そのままシートに向かい、すでにおとなしく寝入っている園部を一瞥した後、少年は再び夜の闇へと姿を消した。
その夜とうとう情報屋は戻ってこず、明くる朝になっても姿が見えなかった。
夜のうちは心配などしていなかった岩田も、朝が来て昼になると、さすがに少年の行方が気になってきた。しかし、だからといって探す当てがあるわけではない。とりあえず持参した食料で空腹をしのいだ後は、することもなくぼんやりと少年の帰りを待った。
夜が明けてみると、中の池に架かった反橋の向こうにかろうじて覗いていたかつての高層ビルの残滓は、もはや跡形もなかった。煙だけがあちこちに上がっているのが見える。久方ぶりに伸び伸びと広がってみえる青空を見るともなしに眺めながら、岩田は少年がもうここへは戻ってこないような気がしていた。それはある種の予感だった。外れてほしい予感でもあった。
「まるで娘の帰りを待つ父親みたいだぜ」
岩田の隣でこの日何本目かの煙草に火を付けながら、内藤が言った。
「そんなに心配しなくても、そのうち帰ってくるさ」
「だといいんだがな」
「奴は冷めてるわけじゃない。感情を表すのが下手なんだ。それが、ここへ来て変わった」
空へ向けて煙を吐き出しながら、内藤は笑う。吐き出された煙はきれいな輪を作って空へと昇っていく。
「あいつも戸惑っただろうよ。妙にしかめっ面をしていたのは、気持ちの変化にうまくついていけなかったからだろう」
岩田は内藤の作った煙の輪をじっと見つめた。はじめはきれいな円だったそれは、昇るにつれて少しずつ形を崩し、最後にはただの煙の塊のようになって風に溶けていった。同じものを見つめながら、内藤がそっと言った。
「奴は家族と呼べるものを見つけたんだと思うぜ」
岩田は隣の内藤を見た。内藤は岩田を見返した。目が合うと、内藤はにやりと笑って自分を指さした。
「俺で父親みたいなもんだからな」
「俺は爺さんか」
岩田も笑った。
「じゃあ、おまえの父親でもあるわけだ」
少年が戻ってきたのは、その日の夜も更けてからだった。
岩田が安堵したのも束の間、覚束ない足取りで姿を現した情報屋は、岩田たちの姿を認めるなり力尽きたようにその場に膝をついた。
不審に思った岩田と内藤が駆け寄ると、満身創痍の少年は昏倒していた。そのひどい有り様に、岩田は思わず息を飲む。衣服は裂けてぼろ布のようになり、土と血に塗れている。間に覗く肌には暴行の跡がいくつも見られた。
「岩さん、足を持ってくれ。シートまで運ぶぞ」
内藤の指示で我に返った岩田は、慌ててそれに従う。用心して抱え上げたつもりだったが、少年は目を閉じたまま苦痛に顔を歪めた。
「これはひどいな」
シートに少年を横たえると、内藤は険しい表情でぼろぼろになった服を剥ぎにかかった。
「岩さん、俺の荷物の中にウォッカがあったろう。取ってくれ」
岩田が言われた通りウォッカの入った瓶を手渡すと、内藤は片手で栓を開け、口をつけて中味をぐいと呷った。そして口に含んだそれを、勢いよく少年の傷口に吹きつける。傷口といっても、それはもうほぼ全身に近かった。一度だけでは足りず、内藤はそれを何度か繰り返した。
そうするうちに少年の瞼が微かに動いた。眉が苦痛の形に歪むのを見て、そばで見ていた岩田は叫ぶように声をかけた。
「おい、聞こえるか!」
彼は岩田の呼びかけに応えるように腫れた瞼を押し上げたが、その目は岩田の姿を捕えることなくすぐに閉じられてしまう。内藤が手にした瓶を岩田に突きつけた。
「飲ませてやりな。気付けになる」
頷いて、岩田は瓶の口を少年の血のこびりついた唇に押し当て、中味を傾けた。ウォッカは三分の二はこぼれて少年のあごや喉を濡らしたが、三分の一は確実に口の中に入っていった。
ほどなく、少年は再び目を開けた。瞳に宿った光が、今度はしっかりと岩田の姿を捕えたようだった。その顔を覗きこんで、岩田は大声を出した。
「誰にやられた?」
少年は力なく目を閉じ、かすかな呻き声と共に、劉、とだけ漏らした。軟膏を塗り、添え木をし、湿布を貼りと手を休めないまま、内藤が低く唸った。底冷えのする声だった。
「あの大馬鹿野郎、あれだけ手を出すなと言ったのに」
少年がかすれた声を出した。首を振ろうとしたが、痛みのためにうまく動かすことができないようだった。
「やったのは……どうせ、三下や。そうやなかったら、とっくに……殺されてる」
あの時の奴か、と岩田は気づいた。電車で出会った気違いじみた服装の男の、しまりのない顔を思い出していた。
「ナイフはどうした。使わなかったのか?」
ふと思い出して岩田は尋ねた。彼に持たせてあったはずだ。内藤も、少しの間手を止めて少年の顔を見た。
「劉の……ボスが……太雷が、地震で死んだらしいんや。それで――」
「そんなもの、ただの逆恨みだろうが。地面に怒ったって仕方がないからおまえを殴っただけのことだろう。おまえが黙って殴られてやる筋合いはないだろう」
内藤は、少年に対しても容赦なく怒りをぶつけた。彼がおとなしくやられたのが気に入らないらしい。けれども彼は悲しそうに首を動かした。
「……俺、わかってしもたんや。大事な人を……失くす悲しみ、いうやつを」
内藤の言ったことは正しかったのだと岩田は思った。少年は変わった。一人で生きていける強さを失くしてしまった。孤独を埋めた代償に。
内藤はそんな少年を一瞬穴の開くほど見つめ、それから手当の終わった少年の腕をぽいと放り出した。
「馬鹿な奴。つきあいきれんな」
内藤はポケットからキャメルを取り出して火を付けると、好きにしろ、とだけ残して前の晩の情報屋のように背を向けた。煙草の火が赤く尾を引いて、闇に飲まれる。
「おい、どこへ行く」
岩田が内藤の背に向かって慌てて声をかけたが、
「ヤボ用だ」
遠ざかる内藤から帰ってきた返事はそれだけだった。
途方に暮れる岩田の傍で、情報屋は微かに笑ったようだった。そしてそのまま深い眠りに落ちた。
岩田は昏々と眠る少年を見守った。内藤が帰ってくる気配はなかった。
不意に少年が身じろぎし、それで岩田は自分がいつのまにかうつらうつらし始めていたことを知った。
「俺、寝てたんか? どのくらい?」
岩田が声をかけるより早く、情報屋が声を出した。ひどくかすれてはいたが、張りのある声だった。
「さあ……一時間か、二時間じゃねえか」
正確なところは岩田にもわからなかった。正直に答えると、そうか、とだけ呟いて、彼はつらそうに息を吐いた。
「寒いか」
「……少し」
毛布からはみだした少年の肩は灼けるように熱かった。それでも少年は寒そうだった。熱があるのだろう。
毛布をかけ直してやったが、思い直して岩田は自分の着ていた上着を脱いだ。岩田愛用の海老茶の古ぼけた皮ジャンは、やはり情報屋には似合わなかったが、毛布の上からかけてやると彼は嬉しそうにした。彼のブルゾンはもう使い物にならない。
「どこへ行ってたんだ?」
少年は言いたくなさそうにしていたが、岩田が黙って促すので仕方なく話し出した。
「ハイツトーマと、おっさんの家。どうなったか気になって」
「どうだった」
「どっちも全壊」
彼はあっさりと言ってのけた。岩田は特に落胆はしなかった。ある程度予想していたことだった。
「それで?」
先を促した。彼が一日かけてそれだけしか掴んでこなかったとは思えなかった。岩田の思った通り、彼は微かに頷いてかすれた声を押し出した。
「生き残ったのは小田急電鉄、京王帝都電鉄、西武鉄道、東武東上線、JR中央線、埼京線、京浜東北線、常盤線。これらが半壊。それ以外は全滅。生き残った言うても、南と東は使いもんにならんっちゅう話やけどな」
早い話が移動の手段はほぼ封じられたということだ。道路はどこも壊れたり、潰れた建物が邪魔していたりで危険だ。火災の収まっていない地域もあるだろうし、余震の一押しで崩れる建物も少なくないだろう。街は歩けない、移動手段がないではどうにもならない。そんな中を情報収集に駆け回った情報屋は、それだけですごいと言えた。
ただし、と彼は付け加えた。まだ何かあるらしい。
「新幹線はまだ生きとる。復旧が完了すれば、の話やけど。それでも、地震さえあらへんかったら、東京駅まで出たらどこへでも行けるで」
「東京を出てどうするんだ」
岩田が訊くと、情報屋は首だけで園部を見た。園部は今日の昼間も騒ぎを起こして岩田を辟易させたが、今はおとなしく眠っている。
「そっちのじいさん、家族がまだ生きとるで。被災者相談室の報告、あれ、誤りがあったんや。孫の、弟のほうがまだ生きとる。それが和歌山の親戚に引き取られとるそうや」
「おまえ……そんなことまで」
岩田は呆れるやら嬉しいやらで息をついた。無関心そうに見える情報屋が、園部のことまで気にかけていたことが岩田には嬉しかった。
不意に少年が咳き込んだ。はじめは痰が引っかかるようだった咳は次第に激しくなり、彼はのたうっていつかのような血を吐いた。
「大丈夫か」
地面に手をついて肩で息をしている少年の背をさすってやりながら、それしか言えない自分に腹が立った。内藤はまだ帰ってこない。
「何をやってるんだ、あいつは」
岩田は苛立たしげに内藤の消えた辺りの闇を睨んで舌打ちした。肝心なときにいない医者など、何の役に立とう。
だが、少年は笑みさえ浮かべて首を振った。少し呼吸が早い。
「おっさんがおったかて一緒や。俺の寿命はもう決まっとる」
それでも、苦しみを和らげるくらいのことはできるだろうと岩田は思った。今まで、どんなときでも内藤の帰りをこれほど願ったことはなかった。
「いいから寝てろ。水、いるか?」
もう一度少年を横にならせる。彼は澱んだ墨のように暗い夜空を見たまま静かに言った。
「自分の命がもう長くないて気づいてから、俺はずっと死に場所を捜してたんや」
「俺の所へ死にに来たのか」
自然責める口調になるのを岩田は止めることができなかった。彼は、岩田のほうを向いて困ったように笑った。
「そないな顔せんとってえな。何も自殺しよ思たんちゃうで。寿命が尽きんのを待つだけや。死にざまぐらい自分で決めたかったんや」
岩田は言うべき言葉を失くして押し黙った。自分より遙かに若い年齢で、自分よりも深く死を見つめている若者に、いったいどんな言葉をかければいいのかわからなかった。
少年が唐突に言った。
「俺が日ぃ暮れてからどこで何やってるか、知りとうないか?」
岩田は少し考えて、首を横に振った。
「……知りたくねえ」
それは前からずっと気になっていたことではあったが、知ってはいけないことのような気がした。それを知ってしまえば、彼は二度と手の届かない場所に行ってしまう。
だが、彼は苦笑すると岩田の意に反して話し始めた。
「人の集まるとこやったらどこでもええねん。渋谷、新宿、六本木、余裕があるときはそこまで足伸ばすこともあるけど、大抵は近場の繁華街やら駅や。とにかく、人の多く集まるところ。人混みん中におると、俺は透明になれる」
「透明に……なるのか?」
何かの比喩だろうと岩田は思った。少年は頷いた。
「簡単なことや。感情を捨てたらええねん。喜びとか怒りとか悲しみとか、そういった感情を全部失くして、流れに身を任せる。わかるか? どういうことか」
「いや、わからん」
岩田は正直に首を振る。振りながら、この少年は意外に小難しいことを考えているのだと思う。
「俺、いう一個の人間の枠を超えるんや。人でない何かの――そう、言うたら天使の、超越した視線を持つんや。情報もな、そうやってるといくらでも入ってくる。けど、そんなんは言うたらおまけや」
彼の瞳は遠い宇宙に向けられていたが、心はそこにはなかった。
「昔、どうしようもなく地平が見とうなって、一人で北の田舎へ行ったことがある。俺の帰るべき場所はこんな薄汚い街やない、思てな。けど、安らぎを求めて行ったはずのそこで、俺は望んだもんを手に入れることは叶わんかった。どこまでも広がる自然の風景の中で、俺は異質やった。俺は自然に受け入れてもらえんかったんや。俺が透明になれるんは、人間の中だけやった」
やはり、岩田には少年の言う意味がよくわからなかった。
「それで結局どうなんだ。おまえは何が望みなんだ?」
結論を求めるように岩田が訊くと、彼はふっと自嘲するようなため息を漏らした。
「俺は――多分、安らぎが欲しかったんやろうな。安心したかったんや」
「そんなものは――」
誰だって欲しいだろうと岩田は思った。この廃墟のような街で、倦み疲れたような都市で、たとえ表面上ではないにしても、安らぎや安心を求めない人間がいるだろうか。
情報屋は頷いた。岩田が言わなくても、そんなことはとうにわかっていると言いたげだった。
「そうかもしれん。そんなふうに思てるのは、多分俺だけやないんやろう。けど、俺は恨みとうなかったんや。……俺を捨てた父さんのことも、他の誰のことも」
彼は自由になるほうの手で自分の両目を覆った。
「泣くな。よけいに目が腫れるぞ」
岩田は皺だらけのごつい手で少年の額に血で貼りついた髪の毛をそっと剥がしてやった。それぐらいしか、今の岩田にしてやれることなどなかった。
「雑多な感情全部捨てたら、きっと人間は幸せになれる。怒りも、憎しみも、悲しみも、それらのおおもとの喜びも全部捨てて、静かな心でいられるんなら。けど――けど、そんなん無理な話やろ。だから、生きていく以上、人間は幸せにはなれへんのや。俺はそう思う」
「ずっと幸せでいられる奴なんか、どこにもいねえさ」
岩田はぽつりと呟いた。
「人間ってのは、そういうふうにできてるんだ」
少年は、顔に手をやったまましばらくの間黙っていた。あまりに長い間彼が動かないので、岩田は心配になってそっと尋ねた。
「痛むか」
少年は緩く首を横に振った。岩田は顔を見せようとしない少年を見つめてゆっくり言った。
「おまえはたぶん、恐れているんだ」
少年の反応はなかった。構わず、岩田は言葉を接いだ。
「おまえは怖いんだ。傷つけられること、疎まれること、愛されねえこと。それが怖くて、捨てられるくらいなら捨てたほうがまし、そう思っているんじゃねえのか? 違うか?」
返答はない。岩田は少しの間待って、彼が何も言う気がないのを確認すると、改めて口を開く。
「おまえが物に執着しねえと言ったのは、思い出を持ちたくなかったからだろう。名前を使わねえのも、それでだな?」
最初は何となく口にしていたものが、言葉にするうちにそれははっきりとした確信に変わっていった。
「名前を呼ぶというのは、他のものと区別するってことだ。名前をもつことで、それは特別な存在になる。だからおまえは名前を使うこと避け、そうやって周囲と関わりを持たねえようにしてきたんだろう?」
岩田は自分の言葉に自信があった。だが、少年はそれに対して特に見解を述べなかった。
「俺はただ、透明でいたかったんや」
消え入りそうな声で、そう呟いただけだった。
「感情が煩わしかった。それだけや」
――人間は傷つくのを恐れて、もっと傷つく。
岩田は情報屋を見つめた。彼は今は、ただの傷ついた子供だった。
「透明だろうが黒だろうが、おまえはおまえだ。おまえであるということを捨てようとするな。自分を否定なんかするなよ」
岩田は目を閉じて、自分の過去を振り返った。いいことばかりではなかった、むしろ良くないことのほうが多かったような気がする半生だったが、それでも自分を特に不幸だと思ったことはなかった。
「人間なんて、汚れてなんぼだ。怒りもするし、悲しみもする。愛しもするし、憎みもする。そういう生き物なんだよ。感情を捨てたら、それは人間じゃねえ」
少年はもう何も言わなかった。岩田は少年の顔を覗きこみ、彼が静かな息をしていることに気づいた。
「……眠ったのか?」
右手は相変わらず顔を覆っていたが、返事はなかった。岩田は少年をいたわるように見下ろし、毛布をかけ直してやると、ひっそりと溜め息をついた。
「おまえ、寂しかったんだな」
そばで園部が寝返りをうった。この数日で、園部はいくらかやつれたように見える。だが、麗奈、と呟いた口許には幸せそうな微笑みが浮かんでいた。
園部にも毛布をかけ直してやると、岩田は二人の間で眠りについた。
朝はまだ遠かった。とりとめのない夢の中で、岩田は情報屋の声を聞いた。
うっすら瞳を開けると、傷も腫れもない、いつもの赤いブルゾン姿の情報屋が岩田を見下ろしていた。口許には寂しげな微笑が浮かんでいる。
「憎しみなら忘れられる。けど――愛情、いうのんは簡単には消せへんもんやな」
彼はそんなことを言った。普段の彼なら絶対に口にしないだろうし、聞いた岩田も笑ったかも知れない。だが、彼の声は真剣だった。
「だから俺は、ほんまに透明になることはでけへんのや」
まだそんなことを言っているのか、と岩田は言おうとしたが、声にはならなかった。
「そんな強さは持てそうもない。俺はまだまだガキやから」
苦笑するように言った後、少年は静かな瞳をした。
「じいさん。悪いけど、俺、やっぱり出ていくわ」
岩田は何か言いたかったのだが、やはり声は漏れなかった。夢だから仕方ないのか、と思った。
「世話んなった。おおきに」
例の口許を歪めるような笑いではなく、心から滲み出したような自然な笑みを浮かべて少年は立ち上がり、岩田に背を向けた。
遠ざかる彼の背はいつかのように感情がなかったが、岩田はその背が寂しいとは、もう思わなかった。
岩田が目を覚ますとすでに日は昇っており、傍らでは内藤が見知らぬ若者の腕を布で縛りながら、男がこれぐらいの怪我でいちいち騒ぐな、などと怒鳴りつけていた。
「よう、目が覚めたか」
起き上がった岩田を見て内藤は治療の終わった若者を放り出し、岩田を散歩へ誘った。
どこへ行っていたんだ、という岩田の問いに、内藤は映画でも観に行ってきたと言うように簡単に答えた。
「情報屋を襲った奴ら、見つけだして締めてきた」
池のほとりに出ると、二人は淵に沿って歩き出した。池に架かった橋は、今回の地震で柱の部分から倒壊してしまっていた。
岩田は内藤の言葉を頭の中で反芻した後、ぎょっとして内藤を見た。
「締めた、って――」
「同じ傷を負わせてやったのさ、一人残らず」
すっきりした表情をしていた。
「何人だった」
「五人」
こともなげに内藤は言う。岩田は半ば呆れながらも、笑いが込み上げてくるのを止めることができなかった。
「報復が来たらどうする」
「来ないさ。上と話はつけてある。それに、来たって全部、返り討ちだ」
軽く腕を組みながら、内藤は自信たっぷりに笑ってみせた。
「医者を怒らせると、後が恐いんだぜ」
岩田は肩をすくめた。内藤を怖いと思ったことはなかったが、底の知れない男ではあると思う。
「俺も気をつけることにするよ」
「ああ、そうしてくれ」
そのまま二人はしばらく黙って歩いた。御苑に住んでいる子供たちのはしゃぎ回る元気な声が聞こえていた。傾いた木々に、鳥たちの声が戻ってきている。
「見事にやられたもんだよな」
内藤は、ビルが崩れて広くなった空を見上げて呟いた。空は雲に覆われており、時折雲の厚みによって明るくなったり暗くなったりした。
「この街、呪われてるのかも知れないぜ。どうする、岩さん。思い切って引っ越すか?」
それができないことは、岩田も内藤もよくわかっていた。この街を離れて、どうやって生きていくというのだろう。岩田には、東京を離れた自分など考えられなかった。それは内藤も同じだろう。自分たちは、特別なことがない限りここを離れることはないだろう、と岩田は思った。それでも、園部だけは故郷に連れていってやりたいと思った。
内藤、と岩田は呼んだ。内藤が軽く眉を上げて岩田を見た。
「おまえ、なんで医者になりたいなんて思ったんだ?」
内藤は意外そうな顔をした。
「どうした岩さん、今までそんなこと訊いたことなかったじゃないか」
「歳をとるとな、どうも気弱になるらしい」
「感傷か? あんたの柄じゃないな。まだそんな歳でもないだろ」
笑って言った後で、内藤はふと真顔になった。
「忘れた」
「忘れた?」
岩田は怪訝そうにしたが、内藤はそんな岩田を見てにやりと笑った。
「そんな大昔のこと、もう忘れちまったよ」
「おまえこそ、そんな歳じゃねえだろうが」
岩田が言って、二人は一緒に笑った。岩田は内藤に話す気がないのを見て取って、それ以上何も訊かないことにした。
風が吹いてきた。切りつけるような空気を受けて岩田は衣服の襟をかき合わせ、それで自分の上着を情報屋に貸したままだったのを思い出した。
そういえば今朝はまだ、情報屋の姿を見ていない。
岩田がそのことに気づいて口を開くより早く、内藤が口を切った。
「あいつ――行っちまったんだな」
予感はあった。だが、信じたくはなかった。内藤の口からそれを聞いたとき、やはり、という思いと、どうして、という思いが錯綜した。
「……そうか」
とっさにそれしか言えなかった。内藤の顔は見なかった。足下に視線を落として、岩田は衝撃に耐えた。
「ひどい奴だな。この俺に挨拶もなしだぜ? おまけに、人の鞄から包帯、湿布とごっそり持って行きやがった」
内藤は溜め息をつきながら、怒るでもなく言った。
では、昨夜のあれはやはり夢ではなかったのだ、と岩田は思った。
「あんなぼろぼろの身体で……」
「まあ、奴もそれほどやわじゃないってことさ」
ふと、岩田は彼がナイフを返さなかったことを思い出した。あれほど何に対しても執着を見せなかった彼がナイフを持ち去ったことについて、岩田はしばらく考えを廻らせた。戻ってくるつもりがあるのだろうか。それとも、記念のつもりなのだろうか。岩田には、そのどちらとも思えなかった。
「どうしてなんだろうな」
岩田は言った。
「何も、今出ていくこともなかったと思わねえか?」
「そうか?」
俺にはわかる気がするよ、と内藤は呟いた。
「奴は猫と同じだ。死に場所は選ぶ。他人には絶対に自分が死ぬところを見せたがらないんだ」
内藤は、自ら彼の死期を察しただけあって、彼の死に対して諦めがついているのだろう。そういう口振りだ。だが、岩田はそうは思わなかった。思いたくなかった。
「いや……あいつは多分、どこかで元気にやっているさ」
「――かもな」
しかし、内藤はあっさりそれに同意した。岩田に気を使っているのかも知れなかったし、もしかすると、内藤自身そうあって欲しいと思っているのかも知れなかった。
池のよく見渡せる一角で、二人は足を止めた。内藤はポケットを探り、半分ひしゃげたキャメルの箱を取り出すと岩田に勧めた。
「一本どうだ?」
「頂戴するよ」
内藤が差し出したそれを、岩田は軽く拝むようにして受け取った。内藤が他人に煙草を、それもキャメルのほうを勧めることなど滅多にない。断れば、この先永久にこんな機会は巡ってこないかも知れない。
枯れ葉の浮いた池の縁に並んで立って、二人は黙って煙草をふかした。冬の庭は、枯れかけてあまり生気がなかった。だが、死にかけているかというと、そうでもなかった。こいつらは時期を待っているんだと岩田は思った。春に向けて、夏に向けて力を貯えているのだ。
「案外いけるんだな、これ」
岩田は煙草を口から離して、しげしげと眺めた。煙草がこれほどうまいと思ったのは久しぶりだった。
「宗旨替えするか? いい加減、セブンスターなんてやめとけよ」
内藤がにやりと笑ったが、岩田は頑として首を振った。
「いや、あれだけはやめられねえな」
「安いからな」
「安いからだ」
それきり、二人は黙って煙草を吸い続けた。
池には空が映っていた。雲が切れて、青空が覗いた。空の遠いところで、冬の太陽が輝いていた。