幸福論
見上げる天に陽の姿はすでになく、光を失った空間を、街の灯が照らしだす。かつて夜を支配した闇はなりをひそめ、ビルの隙間を満たすのは、ただ週末の喧騒ばかり。
眠りを知らない街は疲れきっている。自身が疲れているということに気づかないほどに。
駅前の広場は人で溢れていた。サラリーマン、主婦、学生、待ち合わせをする男女、ティッシュ配り、ギター弾き、歌うたい、絵を売る者、アクセサリーを並べる者。誰もが互いのことには無関心で、誰もが誰かを探している。分かり合える誰か、癒し合える誰か。こんなにたくさん人がいるのに、こんなにたくさん思いがあるのに、心を通わせることができるのはほんのひと握りでしかない。だから賑やかなのにどこか寂しく、虚しい。
――黄昏には、荒んだ街がよく似合う。
歩道の縁に腰掛けたまま、かのんは小さく呟いてみた。呟きは雑踏に叩き落とされ、家路をたどるサラリーマンの急ぎ足に踏まれ、遊びに出る若者の潰れたスニーカーに散らされて見えなくなった。
冷えきったアスファルトは、自らの温度をそのままかのんの体に伝えてくる。けれども何時間も同じ場所に座り続けているかのんは、すでにそれを寒さとして認識していない。きちんと揃えて抱えた膝の下に散らばっているのは、無数のマッチ箱。大きさもデザインもさまざまなそれらの箱に、小さな闇が群れている。
――荒んだ街には、煙草がよく似合う。
「煙草には、マッチ」
ひとりごちたところで、ふと感じた気配にかのんは顔を上げた。
行き交う人々の中、足を止めてこちらを見ている男がいた。若いといってしまって差し支えない年齢の、背の高い男だ。黒いロングコートに浮かぶ、青白い顔。闇を纏ったような黒尽くめのいでたちはそれだけでもいくらか目立ちはしたが、かのんの目を惹きつけたのはおそらくそのせいではない。人波を透過して感じる存在、そこだけ空間がひずんでしまったような違和感。
かのんは吸い寄せられるようにその男をじっと見る。男もかのんを見つめている。
やがて男は静かに歩み寄り、かのんを見下ろして小さな笑みを作った。
「そのマッチは、売り物かい?」
男の声は高すぎず低すぎず、耳をくすぐるいい声をしているとかのんは思った。けれども文句のつけようがないという点において、その声音は逆に警戒を呼びもした。どこか偽装的な匂いを感じる。
「おじさん、マッチなんて欲しいの?」
第一声は、つっけんどんなものになった。長い間独り言以外に使用されなかった声は、掠れてよりいっそう剣呑さを増した。かのんは顔に表れた不信を隠そうともしない。
「今どきお金出してマッチ買う人なんていないわよ」
「でも君は、それを売っているんだろう?」
「そうよ」
かのんは頷いた。それから膝を抱えていた腕を解き、足もとのマッチ箱を拾い集めて男の足元に並べてみせる。男は黒のスラックスに包まれた長い足を折って、その場にかがみ込んだ。上等そうな黒のコートがゴミだらけの地面につくことをかのんは気にしたが、当の男のほうは一向に頓着する様子がない。
「ふむ。どれが良いかな」
顔を近づけて真剣に吟味する男を見て、かのんは思わず吹き出した。
「どれだってたいして変わらないわよ。みんなその辺の店のレジに置いてあるやつなんだから」
経営者に見つかれば、怒られるだけでは済まないだろう。けれどもお金もなく、他人に披露できるほどの芸もない彼女には、それぐらいしか売るものがないのだった。それでも買う人間などいなかったが。
かのんの言葉に、男はマッチ箱から顔を上げる。
「いいや違うぞ」
大真面目に言って、彼はマッチ箱の一つを手にとった。
「例えばこれ、これはマッチがケースに入っているんじゃなくて、ケースとマッチが一緒になっているだろう。使うときに一本ずつ切り離すんだ。こいつは軸が紙だから、あんまり擦りやすくない。下手をすると折れるよ」
「なるほどね」
かのんが笑うと、男は本当だぞ、と言って実演して見せようとした。使うなら買ってよ、とかのんが言うとマッチを擦るのはやめたが、もう一度本当だぞ、と呟いた。かのんはさらに笑った。久しぶりに楽しい気分だった。
「おじさん、煙草吸うの?」
「いや、吸わないよ。体に悪いから」
即答され、それでかのんはまた笑う。けれど、見るからに顔色の悪い男だけに、その言葉には説得力があった。かのんは改めて目の前の男を見る。
本当に不健康そうな男だった。造作の整った顔も、マッチを持つ骨ばった手も、肌は透き通るような白ではなく、病的にくすんだ青白い色をしている。薄い唇には赤みがなく、髪や瞳の黒は生気を欠いて見える。寒さのせい、と言われればそうなのかもしれないが、男の姿はどこか死の影を誘った。
「ねえ、おじさん悪魔じゃないの?」
ふと思いついて、かのんはそう訊いた。笑われるかもしれないと思ったが、初めて見たときになんとなく抱いたイメージだった。
男は子供のようにきょとんとした表情を見せ、それから馬鹿にするでもなく訊き返した。
「どうして?」
「あたし、探してるの。期待なんてしてないけど、待ってるの」
かのんは膝を抱えなおしてまっすぐ男の目を見た。塗りつぶしたように真黒な男の目を。
「何もかも嫌になっちゃったの。だからいつか悪魔が現れて、あたしのお願いなんでも叶えてくれないかなって」
「なるほど、君が売りたいのはマッチではなく魂か」
男はひとり、納得したように頷いた。かのんはちらりと笑みをのぞかせる。
「うまいこと言うわね、おじさん。そうなの、こんなにかわいいあたしの魂なのに、ちっとも売れないの」
男はマッチ箱をもてあそびながら少し考えこむ表情を見せ、それからかのんを見た。
「一つ言わせてもらうと、待っていたってだめだよ。こんなところにいたって、悪魔と出会う確率なんて万に一つもない」
からかっているのか本気なのかわからない口調だった。かのんは少しむきになる。
「でもおじさんに会ったわ」
彼はくすりと笑った。
「私は悪魔ではないよ、残念ながら。君の魂は買えない」
そしてゆっくりと立ち上がり、膝を伸ばす。
「なんだ、やっぱり人間なのね」
かのんはがっかりしたように盛大なため息をついたが、次の瞬間にはころりと笑顔になって男を見あげた。
「でもいいわ、おじさんと一緒にいたら楽しそう」
その言葉に、男はかのんをじっと見下ろした。
「私と一緒に来るかい?」
「連れて行ってくれるの?」
「簡単に言うね」
かのんが顔を輝かせると、男は何かを考えているように一瞬目を細め、それからもう一度腰を下ろして、今度はかのんの隣りに座った。
「聞いてもいいかい」
「なあに?」
「どうして悪魔なんかに頼ろうと思った?」
かのんは実に屈託なく言った。
「だってあたし、全然いい子じゃないもの。神様だって愛想尽かしちゃうわよ」
男は少し笑った。
「くすねたマッチを売っているから?」
そうね、と頷いてかのんは座ったままで膝を伸ばし、自分の汚れたスニーカーの先を見る。冷え固まった体は、動かすとひどく軋む感じがした。
「他にも悪いこと、いっぱいしたわ。もう長い間学校にも行ってないし」
自分を取り巻くすべてが嫌で、家を飛び出したのはひと月以上も前のこと。家を出る時に持ち出したお金は、とっくの昔に底をついている。それからは、お金欲しさにいろんなことをやった。警察や補導員に追われたことも、一度や二度ではない。
「帰る場所がないのかい?」
目の前の人ごみに目をやって、男が訊いた。かのんは少し考え、首を振った。
「体が帰る場所なら、きっとあるわ。でも、心が帰る場所がないの」
友人の家を泊まり歩くのにも疲れてしまった。ここ一週間は、寒さに耐えながら駅で夜露を凌いでいる。そこまでしても、家に戻ることは考えない。
「難しいことを言うね。君、いくつだっけ?」
「もう、十二よ」
かのんは再び折り曲げたジーンズの足を体に寄せ、しっかり抱え込んで上を向いた。街頭やネオンサインの向こうに、ビルの影に切り取られた四角い空が見えた。星は息をひそめている。澱んだような雲の切れ端から、空の広がりは感じられない。
「あたしわかったの。大人たちは、こうやって疲れていくんだわ」
かのんは人ごみに視線を移す。目の前を足早に行き交う人たち。それぞれが周りを見る余裕もなく、心をどこかに飛ばしたまますれ違い、通りすぎていく。誰もかのんのことなど気にも止めない。
自分が疲れていることをわかっているのに、それを癒す術を忘れてしまった大人たち。疲れは溜まり、やがて本人を押しつぶす。どこかで疲れを取らなければ。空を見て。音楽を聴いて。お茶を飲んで。人に触れて。立ち止まって。自分だけの方法で。
そしてその方法を自分も忘れてしまったと、かのんは思った。
「若いのにこんなこと言って、だめかしら」
「若いから疲れないということはないよ。けれど、君は今、投げやりになっているね」
「そうかもしれない。もうだめだと、何度思ったか知れないわ。でも、おいしいご飯を食べて、お布団でぐっすり眠って、そうして目覚めたらまっさらな明日が用意されているかもね。そのときには、生きるのをやめようと思ったことなんて、きれいさっぱり忘れていると思うわ。たぶん、その程度よ」
かのんは膝を抱えたまま、体を揺らして足を浮かせたり地面につけたりした。
「我慢すればいいのかもね。父さんの浮気も見ないふり、母さんの暴力も知らないふり。クラスメートのいじめも気づかないふり。自分の心の傷も見ないふり。そうしたら全部今まで通りよ。――でも、そんなのごめんだわ」
男はマッチ箱を手のひらで転がしながら、黙って耳を傾けている。かのんは、地面に並べたマッチ箱の中から手近な一つを拾い上げ、高く空に放って受けながら男に訊いた。
「ねえ、マッチ売りの少女って知ってる?」
「童話かい?」
「そう、アンデルセンの書いたお話よ」
「よく知っているね」
男は心底感心したような表情を見せた。
「今どき童話を覚えている子なんて、そういないよ」
かのんは少し笑い、もう一度マッチ箱を放りあげる。今度は指先に弾かれ、マッチ箱は軽い音を立てて地面に落ちた。
「リサが教えてくれたの。あの子、喧嘩に巻き込まれて先週死んだけど」
言いながらかのんは落ちたマッチ箱を拾い、スライド式のケースを開いた。中には赤い頭のマッチが綺麗に並んでいる。かのんはその一本を取り出し、おもむろに擦る。乾いた音がして、マッチは勢いよく火を噴いた。
「いいのかい、売り物だろう?」
男が揶揄するように言ったが、かのんは黙って目の高さにマッチ棒を持ち上げ、じっと見つめた。風は出ていなかったが、人が集まる場所のせいか空気が乱れているらしく、マッチの炎はひどく揺れて歪んで、かのんの幼い顔に光を投げる。
「こうやって、この光の中に何が見えるかしら。暖かいストーブ? おいしいチキン? ――あたしには見えないわ」
かのんは指先に迫る炎を払うようにして火を消し、燃え殻を地面に投げ棄てた。
「だって、あたしはそんなもの欲しくないもの。本当に欲しいものは、そんなものじゃないもの。マッチ売りの少女だって、きっとそのことに気づいていたと思うわ」
そしてまた新しい一本を取り出し、火をつける。それもぎりぎりまで燃やしてからぽいと棄てる。炎の向こうに何かを探すように何度もそれを繰り返し、やがて唐突に飽いたようにやめて男を見た。
「結局、マッチ売りの少女が欲しかったのはストーブの暖かさじゃなくて、おばあさんの手のひらの温もりだったのよね」
かのんは目をこすりながら、スニーカーの先で地面に棄てたマッチの燃え殻をかき回した。
「そのためにきっと、あの子はマッチを擦ったんじゃなくて、命を擦ったのよ」
燃え殻はかのんの足の下でばらばらに砕け、わずかに残った軸木だけが黒ずんだ地面に白い肢体を晒す。
「よく考えているね」
男は静かに微笑み、かのんは肩をすくめた。
「毎日毎日、それくらいしかすることないもの」
「なるほど」
ふとかのんは大きく身震いした。どうにも寒かった。雪こそ降っていないが、今晩の冷え込みはこの冬でも一、二を争うものだろう。フリースのジャケットにマフラーを巻いただけのかのんに、今日の寒さはこたえた。このところ食事もろくにとれていない。寒さに耐えるだけの体力が、今のかのんにはない。
「幸せだったと思うかい?」
男の声に、かのんは我にかえる。マッチ売りの女の子は、と男は付け足した。
「道端で寒さに凍えて死んでも、幸せなんてことはあるのかな」
「さあ、どうかしらね。あたしにはわからない」
かのんは正直に答えた。
「でもきっと彼女は、周囲を恨んだり自分を憐れんだりしなかったと思うの。だから少なくとも、不幸ではないはずだわ」
男は頷いた。
「なにが幸せかなんて、結局人それぞれなんだろう。当人にしかわからない」
「そうね」
微笑んで、かのんはあくびをした。頭の芯にもやがかかったようで、とにかくひどく眠かった。
「なんだかあたし、眠くなっちゃった。寝てもいい?」
気を許し過ぎだ、という意識が微かに脳裏を掠めもしたが、それも襲いくる眠気に押し流されてしまう。いいよ、と頷く男の言葉に甘えて、かのんは目を閉じた。
男はかのんを優しい黒い目で見下ろす。娘を見守る父親のように、恋人をいたわる青年のように。そして、そっと呟いた。
「本当に、君の命を買ってあげられたらどんなにかよかったろうね」
無心に眠る少女は、こつん、とその頭を男の肩に預ける。男の側からかのんの顔はちょうど影になって、その表情は見えない。だが、聞こえてくる穏やかな寝息に、男は微かに満足そうな笑みをのぼらせる。それからかのんの頭をあやすように抱いて――、そして静かに唇を歪ませた。
「でも生憎、私は悪魔ではなく死神なんだよ」
週末の駅前広場は人で溢れている。サラリーマン、主婦、学生、待ち合わせをする男女、ティッシュ配り、ギター弾き、歌うたい、絵を売る者、アクセサリーを並べる者。誰もが互いのことには無関心で、誰もが誰かを探している。分かり合える誰か、癒し合える誰か。こんなにたくさん人がいるのに、こんなにたくさん思いがあるのに、心を通わせることができるのはほんのひと握りでしかない。だから賑やかなのにどこか寂しく、虚しい。誰も歩道の少女を振り返らない。気づかない。
かのんの小さな手から、マッチ箱が滑り落ちた。
幸福論/王求 著(2001)