見上げる空は、よく晴れていた。
塗りつぶしたように、青い色。くっきり浮かんだ、雲の輪郭。
空気が揺れていた。アスファルトはすっかり焼けていて、熱気が体と地面を近いものにした。熱の中に沈んでいくような気分。
風が死んでいる。時間が重複している。白々とした、だらしない街並み。焼きつけられる影。このまま世界が終わってしまいそうな感覚。全部、消滅してしまいそうだ。そんな危うさがある。平板な恐怖。歪んだ風景の中を、あたしは歩く。
――りん。
どこかから、風鈴の音が聞こえてくる。銀を鳴らしたような、細くて涼しくて透き通った音。膨張した空気の中を、まっすぐに伝わってくる感じ。
右手にキタナイどぶ川が見える。水分が蒸発して、流れも止まった、川。川と呼べない川。ゴミが浮かんでいる。ペットボトルに空き缶、コンビニの袋。女の子の読まないような雑誌。ゴミってどうしてこう、個性がないんだろう。どこで見ても同じ。いらないものだから? どうでもいいから? それとも、そう思うあたしがいろんなものを同じものとして括ってしまってるんだろうか。
川からは臭気。川が腐ってる。でもきっと、あの中で生きているものもいる。ヘドロの中で、今しも息をしている。気味の悪いそいつを、あたしは好きにはならないだろう。でも、あたしもその生き物も、今は同じ、ただ太陽に焼かれている。
汗が止まらない。サンダルが汗で滑って気持ち悪い。血液が熱を持っている。そのうち、体が燃え出すに違いない。
陽炎の上に思考を浮かべながら、あたしはだらだらと待ち合わせの駅へ向かう。待ち合わせの時刻はとっくに過ぎているけれど、そんなことは気にしない。
いつも待ち合わせに使う巨大広告テレビの前には、きっと怒った顔した篤志がいる。走ろうともしないあたしを、睨んでいる。
篤志は時間にうるさい。わかっていて、あたしは遅れていく。別に怒らせたいわけじゃないのだけれど。
声が届く距離になると、あたしの到着を待ちきれずに、篤志はきっとこう言う。
「遅えなあ」
口調までもが想像できる。眉間に皺を寄せた、その顔も。
「ごめんね」
あたしはいつものように、口先だけで謝る。わかっているから、篤志はますます怒るだろう。
「今日が世界の終わる日とかだったら、どうするわけ? もったいない」
この前篤志は、そんなことを言った。今日みたいに晴れすぎた日だった。
「もったいなくなんかないよ」
何を言い出すのかと思ったけれど、あたしは思ったことを口にした。
「いつだってなんだって、やりたい時にやりたいことをやる。でなきゃ、最後だからってやりたいことやるんだったら、それまでの人生なんだったのってことになっちゃうじゃない。それって、変じゃない?」
「じゃあ、オレをさんざん待たせて怒らせることが、おまえのやりたいことなわけ?」
「だからごめんって」
「悪いと思ってないだろ」
篤志は怒る。あたしは謝る。けれど、篤志の感覚があたしには理解できない。本当は、こんなふうに時間と場所を決めて出かけるのは、あんまり好きじゃない。べたべたの恋人たちなら幸せに感じるだろうそのささやかな拘束が、あたしには鬱陶しい。
篤志とあたしは大学の同級生で、なんとなく気があって、なんとなく一緒にいる。どちらも、好きだとか付き合おうとは口にしなかった。その関係が、気に入っていたのだけれど。最近の篤志は、あたしを縛ろうとする。それが面白くない。
あたしは少し、ずれているのかもしれない。それとも、この陽射しに脳が醗酵して、思考が狂いかけているのだろうか。
――りん。
すぐ傍を、赤い軽自動車が走り抜けていった。踏み切りの警鐘やよその車の音はおろか、助手席に座った人の声すら絶対に聞こえないだろうと思うほどの大音量で音楽がかかっていて、ドアや窓の隙間から、原色の音がはみ出ているのが見えそうだった。それだけで気温がよけいに上がりそうな気がする。
車を見送った目に、くたびれた家並みが映る。黒ずんだ壁と、歪んだ樋。錆びの浮いた金具。それから、陽光を弾く青いビニールの簾。その下に並ぶ、アサガオの鉢植え。緑の葉っぱは、白い陽射しに萎えている。簾の向こうから聞こえてくるのは、テレビの音。バラエティーか何かをやっている。ときおり弾ける観客の笑い声は、まるでテレビ自身が笑っているみたいだ。誰かの家から洩れてくるテレビやラジオの音は、非現実的でちょっといい。生活の音も、壁一枚隔てただけで新鮮だ。
開け放しの玄関に丸椅子を持ち出して、ステテコ姿にうちわを持ったおじいさんが涼を求めていた。目をしょぼしょぼさせて、川と対岸の風景を見ている。
二つ隣りの家では、おばさんが打ち水をしている。ひしゃくで水を撒いていたけれど、撒くそばから蒸発しそうな地面の熱に負けて、バケツを振っている。
汗が目に入る。目が痛い。ハンカチを出して汗を拭うと、窓辺に吊るされた風鈴が見えた。ガラス製の、からからと氷のような音を立てる風鈴。頭に響くあの音とは違うけれど、とても夏らしい。
――りん。
ふと、かき氷が食べたくなった。
がりがりの氷じゃなく、シャリシャリに薄く削られた氷。白い氷。舌が染まるほどの赤い蜜を染みこませて。器は透明がいい。
無性に冷たいものが恋しい。冷えた空気を、この焼けた肺に入れたい。
止まった車の下に、猫がいた。太った三毛猫。だるそうに目を細めている。
あたしは、ようやく思い立って日陰をさがした。このままだと、駅につく前に確実に溶ける。溶けたあたしは蒸発して、空に昇るかもしれない。入道雲の高みまで。
――りん。
また。
鈴の音。頭の奥まで響いてくる、でも一瞬の音。どこから聞こえてくるんだろう。
音が聞こえる瞬間、記憶の中を電流が走るような気がする。閃く感じ。呼んでいる。
あたしは足を止めた。息を吸う間考えて、それから踵を返した。
デートは中止。
なんだか、学校をサボる学生の気分だった。少しの後ろめたさと、それよりたくさんの楽しい予感。あたしはそんなに、篤志と会うのが負担なのだろうか。――違う、約束が重荷なんだろう。太陽と同じ、その陽射しであたしを地面に縫い止めるように、拘束しようとする言葉が。
あたしの足は、近くのコンビニを探す。冷やし中華を食べよう。麺が渇いてかたまった、コンビニのチープな冷麺が食べたい。そして夕方涼しくなったら、思い出したように篤志に謝りに行こう。果たして彼は、あたしの気まぐれを許してくれるだろうか。
空気を底から持ち上げるような唸り声で、電柱に止まった蝉が鳴き出した。熱い空気が震動する。震動が新たな熱を生む。
あたしはぼんやり蝉を見上げ、電柱に貼ってある剥げた呉服屋の看板を見つめ、風景の中でただひとつだけ鮮やかな空を見た。眩しい。見るものすべてが目を焼いて、記憶までもが真っ白になる。
本当に、こんな日は世界が終わってしまいそうだ。それもありかと思わせるような退廃した空気が、街全体にただよっている。それでもあたしはやっぱり、こんな風に適当に歩いているだろう。篤志の機嫌をとる方法でも考えながら。
だらしがないのも悪くない。色褪せた風景が、どことなく懐かしい。沸騰しそうな脳が見せる、つかの間の幻影。涼しいところで思考をしゃきっとさせたら、きっと消えてしまう感覚。
――りん。
今日はあんまり暑いから。このまま夏の空気に浸っていよう。